館長の剣道修行(15) 信州大学剣道部 その4 新入生歓迎合宿

今となっては、ゴールデンウイークの前だったのか後だったのか、はっきりと記憶はありませんが、前回の新入生歓迎コンパよりも後に、「新歓合宿」というものがありました。

大学内にある合宿所に寝泊まりして、授業開始前と普段の放課後の稽古を行うというものです。大学内の合宿施設は布団代がかかるくらいで、ごく安く泊まれるので、この後もよく利用しました。

初日は放課後の稽古からのスタートだったと思います。稽古をした後みんなで大学生協の食堂で夕飯。あらためての自己紹介や剣道部としての心構え、稽古の取り組み方、質疑応答が行われ、そのご自由時間でした。

先輩の中には、自分の下宿に帰って勉強する人、トランプなどを始める人、酒とつまみを買ってきて酒盛りを始める人などまちまちで、私や吉玉君は迷わず酒盛りに加わりました。

11時には就寝時間となり、その夜はおとなしく眠りました。

2日目、朝稽古を1時間半ほどやって、大学生協食堂で朝食をとり、9時からの授業に出るもの、そのまま生協食堂で話し込むもの様々でした。

そして、放課後の稽古。新歓合宿は稽古についてこられるように基礎体力をつけ、基本を会得するという名目なので、それほどきつい稽古ではありませんでした。

放課後稽古の後はすぐに合宿所でミーティング、そして各自で夕食のあと再度集合でした。合宿所に戻ると、なぜか他地区の先輩方が集まっていたのでした。

信州大学は県内に広く学部が散っているので、平日の稽古は地区ごとに行い、このころはまだよくわからなかったのですが、全員が顔をそろえての稽古は月に1回くらいです。

この日は合宿中とはいえ普通に授業のある平日なのに、なぜかほとんどの先輩が顔をそろえて集合したのでした。

当時部員は総勢100名を超えていたと思います。素直な私たちは、新入生のためにわざわざ、おそらく明日の授業を休んで、こんなに多くの先輩方が集まってくださったのだと、いたく感激しました。

このとき、新歓コンパのようになぜか二年生だけがニヤニヤしているような気がして、妙な胸騒ぎもありました。就寝時間となり先日よりも早く、疲れているだろうからさっさと寝るよういわれました。やはり何かおかしいなと思いながらも眠ったようです。

 

 

ガンガン。

金属製のバケツをたたくような音で起こされました。

「火災発生、火災発生、直ちに避難せよ。靴を履きグランドに集合。」

本当の火事なのか、避難訓練なのかよくわからないまま靴を履き、走って合宿所のすぐ隣にあるグランドに整列しました。

 

2年生の

「ここに整列しろ。」

という声に従って私たちは整列しました。

 

「ドクトルまんぼう青春期」にあった「ストーム」というやつか?

そういえば、まんぼう先生は旧制松本高等学校だった。今の信州大学そのものじゃないか!!

その頃、まんぼう先生が寮生活をした、思誠寮は鉄筋コンクリートにはなりましたが残っていました。

思わぬ展開に、心の中ではうれしくなってしまいました。

 

2年の先輩から、自己紹介をするよう促され順に大きな声で自己紹介。声が小さいと何度でもやり直しです。合格すると、一升瓶を手渡されラッパ飲みで日本酒を飲みます。日本酒は一本だけでなく、何本かあるようでした。

「先輩方がおまえらに用意してくださったありがたい酒だ。みんなが自己紹介するまでにすべて飲み干せ。」

「やったー、今日は日本酒だ。」

新歓コンパでは、泡盛をどんぶりに注がれ大変なことになったけれど、日本酒はうまい。コレはラッキー。

 

新歓コンパの時の光景を思い出すと、たぶんみんなはそんなに飲めません。飲めるとしたら、私と吉玉と直敬しかいません。

「がんばるしかない。」

ひとりで勝手にそう思い込んで、暗いのでよくわかりませんでしたが、恐らく一升瓶の半分ほども飲んだような気がします。小さな声で先輩が

「そんなに飲まなくて良いぞ。」

といっていたけれど、もう遅い。胃まで日本酒が落ちてしまった後でした。

 

みんなに酒が回っても、一升瓶にはまだ少し残っていたようです。

「誰か飲みたいものはいるか?」

手を挙げようか迷っていると、吉玉と直敬がすかさず手を挙げ、あっという間に二本の一升瓶を空にしてしまいました。

 

この後、先輩方の激励の言葉が続き、終わりかと思ったところで、

「これから4年の先輩と、50m走の勝負をやる。負けたものは明日の朝の稽古で掛かり稽古だ。」

私は短距離ならば多少自信があって、なんとかなるかなと高をくくっていました。

 

全員が横一線に並んで

「よーい、ドン」

圧倒的に速い。4年生が。お話になりません。

 

スタートダッシュが違う。その後の伸びが違う。異次元の世界でした。走り終わって、ゼイゼイ息をしていると、さっき飲んだ日本酒がグラグラ回ってきました。

後で聞いた話ですが、その先輩は大学に入ってから初心者で剣道を始められたそうですが、なんと、高校時代は京都府代表の短距離が専門の国体選手だったそうです。だから、ちょっと速いぐらいでは全くお話にならないのでした。

 

その後は大学の近くの居酒屋へ繰り出して飲み会となりました。楽しいけれどハードなストームでした。

そしてバカなことに、その後飲み過ぎて翌日大変なことになったのです。

 

さて、翌日です。

先輩にたたき起こされ。意識朦朧とした状態で剣道着・袴に着替え体育館へ。

昨日の記憶は居酒屋へ繰り出し一杯飲みかけたところで飛んでいました。

 

フラフラのまま切り返し、打ち込み。

胃から苦くて酸っぱいものがこみ上げてきて、面ひももほどかず無理矢理かなぐり捨て、トイレに猛ダッシュ。

 

胃が空っぽになるまでもどし、水を飲みさらにもどしました。

新歓コンパの翌日は、昼まで寝ていましたが、

今回は酒の残った状態での稽古です。

これまでにない苦しみを堪能しました。

 

もちろん、吐き気が収まったら稽古に復帰です。

しかし、頭はまだ意識朦朧です。

時間が過ぎることだけをただひたすらまって、面を打ちこみ、飛ばされ、追いかけ、よれよれの掛かり稽古と打ち込みでした。

吐いて以降は、道場で面を打ちながら泳いでいたような気がしますが、記憶がありません。

 

新入生歓迎合宿でした。

館長の剣道修行(14) 信州大学剣道部 その3 新入生歓迎コンパ

高校最後のインターハイ予選から剣道を続けようかやめてほかのことをしようか、ずいぶん迷いましたが、やはり剣道は捨てきれず、正式に剣道部に入部しました。

 

高校剣道部からの同級生、松田君が私に、

「宮崎やったら、国立の剣道部くらい、最初からレギュラーになれるぞ。」

そんなことをいうので、なんとなくそんなものかなあ・・・? などと思っていました。

 

初めて体育館へ稽古に行くと、同級生はびっくりするほど大勢いました。

たぶん、初心者経験者あわせて、30名以上いたように思います。

卒業するときに、短い期間でもいた同期の数を拾い出したところ、50人以上だったと記憶しています。

しかし、卒業時まで部に残ったのは17名。およそ三分の一しか残りませんでした。

 

「自信のあるものだけ上級生とはじめから面を付けて稽古をしても良い。」

といわれ、私を含め5名ほど上級生に混じって稽古しました。

稽古の内容は特別しんどい・えらいという稽古ではなく、準備体操の後、切り返しから基本技の稽古、応じ技の稽古を40分ほど、地稽古を約30分、掛かり稽古を10分、切り返しのオーソドックスなものでした。時間にして、1時間30分きっかりの稽古でした。

基本からやり直し組は、稽古着・袴姿ですり足、踏み込み足、素振りをただひたすらやっていました。基本組の方が、足にまめが出来てつぶれるもの、素振りで手がボロボロになるもの続出で、面着け組よりもかわいそうな状態でした。

高校までの練習で足の皮がむけたり、手のまめが出来たりするほどやっていなかったものがほとんどだったので、足の手当の仕方や、まめが出来にくい竹刀の持ち方、振り方を話題に同級生同士で飲めないお酒を飲んで語り合いました。

 

稽古の中で、上級生から新歓コンパ・新歓合宿の話題が出るようになりました。

なかでも、二年生が一番楽しそうにしていました。

なんでかな?

わたしたちにはわかるはずもなく、ただ土曜の新歓コンパを待ちました。

 

そして、新歓コンパ。

なぜ楽しそうにしていたのかわかりました。

正確に言うと別に楽しそうにしていたわけではなく、一つの通過点として、親元を離れた子にびっくりするような経験を積ませる意義のようなものを感じていたのかもしれません。

 

経験のない私たちに取っては、新歓コンパの席は一種の戦場であり、修羅場でした。

大学に入ったばかりの一年生に酒の強いものがいるはずもなく、さっきの稽古までの先輩とは違う豹変ぶりに翻弄され、圧倒されるばかりでした。

「まあ飲めや。」

手にしたコップに次から次からいろんな先輩がビールを注ぎに現れます。

とてもかわいくて可憐な、医療技術短大の先輩も、にこにこしながら、

「はい、宮崎君全部飲んで。」

などと、コップを空にするよう促しています。

 

ビールを胃に流し込んではトイレに行って吐き、それの繰り返しを延々続けていました。

次第に、同級生達の屍があちこちに転がり始めました。

わたしは、ビールを流し込んではトイレにいって吐きのペースを守って、最後まで倒れることなく新歓コンパから生還した、数限りない戦死のひとりでした。

途中きつかったのは、誰かひとりの先輩が持ち込んだ「泡盛」。これをどんぶりに注がれ一気飲みしたときは、胃がひっくり返りそうになりました。まず、口を付けた瞬間、「泡盛」独特の香ばしい香りが嘔吐中枢を刺激し、「これはやばい。」ビールとは訳が違うと感じましたが、時既に遅し、食堂を焼きながら一気に胃まで薄い褐色の液体が落ちていきました。

そして、胃の壁を一気に焼き尽くすかのように火炎放射しました。すぐにトイレへ駆け込みました。危うく便器の外に粗相をするところをかろうじてこらえ、胃の中のすべての褐色の液体を出し尽くしました。

水を飲んでもう一度吐き、胃の中を清めました。

そして再び戦場へと帰っていったのです。

 

剣道部が新歓コンパで使う会場のお店は、大抵その日以降出入り禁止になるので、記憶がおぼろなことと相まって、どこが会場だったのかその後もわかりませんでした。

 

後から聞いた話ですが、二年生はすべての一年生をつぶした後(女子はのぞく)、下宿まで送り届ける手はずだったようです。

このとき私たち一年生は私を含め生き残ったものが3名いたそうです。

私はほぼ記憶が飛んでいるので直接わかりませんが、私以外は、今でも年に一回くらいは一緒に飲む機会のある吉玉拓生君と、千葉で医者をやっている山本直敬君が生き残ったそうです。

今年の一年はすごいのがいるぞ。そんなことをいわれたそうです。

私や直敬君は今ではおとなしく紳士的に飲んでいますが、吉玉君だけは今でも中国人やミャンマー人、韓国人を相手に気合いを入れてのんでいるそうです。

 

なぜか、気持ちのどこかに酒が強くなると剣道も強くなるとか、酒だけは先輩に負けないとか、酒に強いとかっこいいとか、だから酒に強くなりたいという願望ができて、毎日酒の掛かり稽古をしなければという気持ちで酒を飲んでいたような気がします。

 

館長の剣道修行(13) 信州大学剣道部 その2 入部

信州大学経済学部経済学科に入学しました。必死で受験勉強をしたというほどやったわけではありませんでしたが、国立大学にもぐり込みました。

剣道部入部は入学当初はきめていなくて、合気道部に入ろうと思っていました。

剣道部で同じだった高校の同級生が同じ学部にいたので心強く、高校時代はそんなに仲が良かったわけではありませんが、ひとり暮らしを始めてから頼りにしていました。彼は松田といいますが、色々とお世話になりました。

 

入学してしばらくは、授業の説明や部活のガイダンスがありました。気になっていた合気道部のガイダンスがあったので、剣道部のガイダンスより先に合気道部をのぞきました。

教室での説明から体育館の柔道場に移り、実技体験になりました。私は本で読んだだけですが、基本動作や基本技を一通りひとりでやって練習していました。

「誰かやってみたい人はいませんか?」

の問いかけに、

「はいはい。」

と調子に乗って前に出ました。

 

畳の上に腹ばいになり、関節を決められ立ち上がれなくなるという筋書きだったと思います。

私の手首はとてもやわらかく、しかもギリギリ決めさせなくて、たぶん部員の方も痛い事しないようにという配慮があったと思うのですが、なんなく、立ち上がってしまいました。

立ったままで、やはり肘と手首を決め伸ばせませんよというパフォーマンスでも、難なく伸ばしてしまいました。やはり、部員の方の痛くしないようにという配慮が大きかったのだと思いますが、私の本でかじっただけの合気道の方が上のような気がして、申し訳なく思いました。

部員の方は、自分たちは2年の初心者で4年の先輩ならそんなことはないと弁明していましたが、私はかなりがっかりしました。

 

合気道部のふがいなさを見て、剣道部のガイダンスに行くかどうか迷っていたとき、松田君が誘ってくれて、ついて行きました。

30年以上前のことなのでもう時効だと思いますからお話します。今は学生の飲酒には厳しい大学がほとんどだと思いますが、この頃はまだ大学生の飲酒は黙認されていたような所がありました。剣道部のガイダンスは教室での説明会の後、お花見と称して、梅の咲き誇る(桜はまだ先)公園に繰り出し、コンパを始めました。

コンパに行くと、すでに顧問の先生や上級生が私のことを知っていて、

「君が宮崎君か、これから一緒にやろう。」

等と声をかけられました。

 

なんでだろう?

なぜ私のことをみんなが知っているのだろう?

 

そんなことを考えていると、顧問の折口築先生が種明かしをしてくださいました。

私の高校の恩師、大杉二郎先生は東京教育大学の出身で、信州大学剣道部の折口先生は後輩に当たり、自分の教え子が大学で世話になるからよろしく頼むと手紙を出してくださっていたそうです。

ですから、折口先生は先輩達に私のことを話して歓迎してくださったのです。

私は調子に乗って痛飲し、下宿の鍵を落としてしまい、初めてのひとり暮らしで部屋に入れなくなってしまい、困った記憶があります。

 

このコンパがきっかけで、もう合気道やほかのスポーツに心を奪われることなく、剣道に打ち込もうと決めました。

大学で剣道を続けるかどうか迷いましたが、ほかの武道も試してみて、やはり剣道が好きだと心の底から思えました。

剣道部に入部しました。

 

館長の剣道修行(12) 信州大学剣道部 その1 高校剣道引退後の迷い

さて、前回をもちまして高校での剣道修行は終わりです。

今回からは大学での剣道修行になります。

 

ですがその前に、私は受験勉強に励んでいる間、大学に入ったら剣道をやめたいと思っていました。

高三のインターハイ予選での審判ミスによる私の敗戦はとてもショックでした。どんなに努力しても、誤審一つで夢が砕かれてしまう剣道に嫌気がさしていました。

試合から時間がたってもその気持ちは収まらず、「大学では剣道は絶対やらない」という気持ちはどんどん強くなっていきました。

いくらがんばって稽古に励んでも、見る目のない審判の旗の上げ下げだけで、努力を踏みにじられてしまうという剣道の無慈悲さ、打突部位に当たったかどうかも正確に判断できない審判員のレベルの低さ、少し剣道をかじった教員というだけで、ろくに稽古をしていなくても審判に平気で立つ傲慢さ、いろんなことに嫌気がさしていました。

むしろ剣道そのものというより、試合での審判のいい加減さに絶望していたのです。

審判のいい加減さは、今になってわかるのですが、中体連や高体連といった、学校の教員が絡んだ試合で特に顕著です。

 

確かに、実力伯仲した相手との出端狙いからの面と面の勝負を考えたとき、一瞬の差でどちらも面をとらえていた場合、どちらが先に当たったかを見極めるのは大変難しいことです。しかし、誤審も含めてそこに勝負を架けるしかなかった場面でもあります。そこでの、どちらが速いかの論争ではありません。私が言っている争点はそこではありません。

 

例えば、

肩に当たった面で「面あり」。

竹刀に当たっただけの「小手あり」。

竹刀で受けていて面に当たっていなくても「面あり」。

のけぞって顔を上に向けた状態で、面金が真上を向いたところに打った面が「面金だから一本じゃない」。

私が剣道をやめたくなったのは、一瞬の差のきわどい判定ではなく、このような明らかな誤審です。

 

審判が教員でなくても、やはり「しっかりしてくれよ」という場面にはよく出くわします。

 

私事ですが、

六段の時一度だけ出た国体予選。

初太刀、相手の面に対して出端小手。会心の小手。その直後相手が引き面。「面あり」。

二本目。先ほどの出小手があるので相手は小手へ、それに対して私の小手すりあげ面。これも会心の面。その直後相手が引き面。相手の「面あり」。ふた振りで勝って、ふた振りで負け。

挨拶を済ませると相手が走り寄ってきて、「宮崎さん、済みませんでした。出小手もすりあげ面も参りました。」いい人に負けました。気分爽快、機動隊の特練、隊長さんでした。

別の試合で、長身の元上段だったという方と。私がガシガシ遠間から攻め込むので避けるのに必死になっておられました。遠間から攻め相手がのけぞったところへ面。背中を反らしリンボーダンスのように顔を上に向けた所に面でした。試合後、審判の一人が言うには面金だから一本じゃないそうです。

長身の人は良いね、恥じらいが無くて。のけぞってリンボーダンスなんて恥ずかしくて、チビの私にはできんな。

その後膠着。相手が面、私が面すりあげ面か面返し胴だった。当たって無い「面あり。」

面はのけぞったところの面金に当たると面はなく、完璧にすり上げたり、返すと当たって無くても雰囲気で「面あり。」

 

 

私は七段になって一度だけ試合に出ましたが、それを最後に試合からは遠ざかっています。

七段をとってすぐだったと思います。岐阜県の東西対抗試合に選手としてお声がかかりました。その大会でのことです。お相手も新七段。私と年齢が近い方でした。

主審、教士八段。副審ベテランの教士七段。

一本目。私が面を打とうとするところ、相手が小手を打ってきました。しかし、小手には届かず空振り、左手の子指に当たりました。「小手あり。」

二本目。今度は相手が担いだようなところで、私が出端面。よし面いけた。相手は担いだ形から面抜き胴になっていましたが、私の面が先に当たっていました。「胴あり。」

このときもお相手が挨拶の後すぐ駆け寄って来られて、謝られました。

やはり、完全に打たれ負けた試合で、審判の誤審により2-0勝ちではあまりに恥ずかしかったのでしょう。

 

しかし、お相手は二本勝ちで優秀選手賞。彼を優秀選手に選考したのは別の教士八段の先生。審判講習でよく講師をされ「そんなんじゃだめだ。」といっておられます。主審を務められた先生と同じく、顔の正面に「節穴を二つ」付けておられます。

県の剣道連盟のH.P.に二本目の胴の場面の動画がアップされました。友人から、「あれおまえの面やな。」。剣道連盟に「二本目だけでなく、一本目の小手もアップしてください。」とお願いしましたが、さすがに左小手の指に当たった場面をアップするわけにはいかなかったようです。さらに、二本目の胴の場面も削除されました。

他の人の一本の場面の動画はすべてアップされているのに、私の試合だけ動画がないのは不自然ですね。しかもお相手が優秀選手なのに・・・。みんなが認めた誤審をなかったことにしたわけでしょう。

 

 

数年前、岐阜県段別選手権での審判をしていたときのことです。この試合は審判はすべて七段以上ということになっているので、未熟な方が審判をやっていたわけではありません。

中学女子の試合でした。私は副審。

一方が打ったあと足が滑って膝と手を床につく場面がありました。一方が倒れた場面では相手がすぐに一本技を出すのを確認して「やめ」をかけます。

このときも直後の技をみるために間を置きました。そうしたら打つわけではなく、ライン際だったので、押して場外に出してしまいました。

「やめ」がかかり私以外の2人は、場外反則の表示。私は「合議」をかけました。

倒れてすぐの打ちを待ったのはルール通り。しかしそれは「打突」を見極めるためで、押し出しを待つためではなく、打ちがない時点で「やめ」をかける。ましてや、押し出しは禁止事項で明らかに打突せず押し出しただけ。むしろ反則は押し出した方だ。

私の主張は否定され、根拠はわからないが、倒れた方が倒れたまま押し出され「場外反則」になってしまった。信じられないが本当にあったお話です。しかも、主審をされていた方は、この日模範演武で形を打たれたベテランの七段です。一体何を考えてやっているのか、頭を開けてみてみたいと思いました。

 

さて、岐阜市の場合、中体連主催の夏の大会では、市大会→地区大会→県大会→東海大会→全国大会、と駒を進めます。市大会・地区大会は審判の出来る教員の人数が限られていますので、県剣道連盟の地元支部に依頼し六段以上の先生がたや、県警機動隊から剣道特練の面々、大学から学生の中でそれなりの技量の持ち主にお願いして数の確保をします。

ですが、県大会になると教員の中の有段者で審判の人数が確保できるので、剣連や警察・大学からは審判が出ません。

それはそれで良いのですが、教員の有段者の中には、大学まで剣道をやっていて、教員になってからも、部活で稽古を積み、また地元の道場や剣友会などでも稽古を続けている方もいらっしゃれば、中学時代に二段を取得、高校・大学では剣道部に入らず、教員になってから部活で剣道再開したが、部員より弱い方などもいらっしゃいます。

県大会ではこのようにレベルの差の激しい方が審判を行います。東海大会では少しだけレベルは上がるような感じですが、基本的には三~四段以上ぐらいでしょう。

実際、審判講習などで審判する姿をうかがっていますと、二段~五段まで位の方ですと、やはり稽古量豊富な方・剣道がうまく試合慣れしている方はみるべきところがわかっている感じですが、そうではない方の方が圧倒的に多く、ルールもよくわかっておられない感じです。

しかも問題なのは、こういった講習会に教員の先生方はほとんどいらっしゃらないということです。

ご自分の技術無く、見る目も無く、稽古量無く、自分の剣道を審判を少しでも良くしようと講習会等にも参加する気もないという、最低の状態です。

剣道連盟主催の講習会は出られなくても、学校剣道連盟の講習会には出ておられるだろうと思い、過去に一度だけ学剣連主催の剣道講習会(私も岐山高校の非常勤講師なので)に参加しましたが、参加者の少なさに愕然としました。

つまり、「どこでも剣道・審判法について学んでおられない」のでした。

そんな方々が審判をする大会に、中学生・高校生たちは、血と汗を流し必死で努力してなんとか全国大会にと夢を追っているのです。それに対し、応えられる運営側では無いのです。

学生たちの純粋な剣道にかける情熱を、教員達の驕りがぶちこわしていると言っても過言ではないと思います。お願いですから、ちゃんとした審判を頼みます。

 

 

話が大幅にそれて、教員の先生に対する審判批判になってしまいました。

さて、そんなことで大学で剣道を続ける気持ちは無くなってしまいました。

 

受験勉強の合間に息抜きに読んだ本が、塩田剛三さんについて書かれた合気道の本で、少し合気道に興味がわき、入門書を買ってきてひとりで練習していました。

 

さた、大学は長野県にある信州大学に進学しました。

私立大学の受験では法学部ばかり受けたのですが、無謀な挑戦だといわれるところが多く、思うところに合格できませんでした。唯一国立だけ自分の得意な小論文のみで受験できるという、この大学に勝負をかけていました。

 

私たちの頃は今のセンター入試ではありませんでした。

共通一次試験の三期生でした。

 

その前は、国立大学は日程により一期校・二期校に分かれていて、国立大学を二度受験することが出来ました。いまでも前期日程・後期日程という制度があると思いますが、一期二期は同じ大学をもう一度受験することは出来ませんでした。

共通一次試験は、国立大学受験者全員が受けることが義務づけられていて、それが受験に加味されました。

共通一次の取り扱いは各校まちまちでした。

二次試験の結果に加え一次試験の成績も加点するところ、共通一次は足切りにだけ用い、二次試験以降は全く加味しない学校など、それぞれの特色を生かしていました。

信州大学経済学部は共通一次試験は足切りのみに使われました。私たちの年は競争率が6.9倍で、足切りの倍率が7倍だったので、実際には共通一次の点数によって足切りされたものはいません。

私は得意科目が極端で、国語は学年順位が5番以内。政治経済・倫理社会が1番か2番。英語がおしりから2番。文系としては致命的に英語が苦手でした。

二次試験で英語がなく、共通一次の扱いが二次に影響なく、国語と政経・倫社で勝負できる大学は、信州大学しかありませんでした。

信州大学は、共通一次は7倍の足切りにのみ使用し、二次試験科目は小論文のみ。

私にとっては理想的な受験となりました。弱点は評価対象にならず、得意技だけで勝負できる。

 

信州松本で私の大学生生活が始まりました。

館長の剣道修行(11) 岐阜北高校剣道部 その3 試合の思い出

前回は警察官の剣道における「タコ踊り」に話がそれてしまいましたが、高校時代です。

 

さて、私たちが最上級生となってから、言い換えると2年の「インターハイ」予選が終わってから、私たちの目標は「打倒市岐商、インターハイ」となりました。

進学校なので部活動の時間は、平日1時間。しかも毎日できるわけではありません。狭い第二体育館を剣道部、柔道部、卓球部で使用するので、同時にできるのはふたつの部。剣道部の週間稽古予定は、月・火は稽古、水曜休み、木曜筋トレと素振り、金・土稽古、日休み。

平日、月・火・金が1時間ずつ、土曜が3時間、面をつけて稽古できるのは、たった6時間、これだけでした。

おそらく、市岐商などは、月・火・水・木・金は3時間。土日は4時間ぐらいは稽古しているでしょう。一週間で23時間ほどはやっていそうです。

私たちの少なくとも3倍から4倍稽古している学校に勝負を挑んで、「インターハイ」出場を勝ち取ること、それが目標でした。

大杉先生も、稽古時間の差については承知してみえたようで、

「3分の1の稽古で同等以上の成果を出すには、いつも頭を使った稽古をしろ。」

と、これが私たちの合い言葉でした。

 

さらに、1時間で出し切る稽古を心がけました。時間は短いけれど、稽古が終わったときにはフラフラになるほど、全力で体を動かし手を抜かない稽古です。

私は、小さく速い足捌きを止めることなく使い続けること、打ち合いに持ち込んだら一本とるまでは打ち続けること、「三殺法」を意識することに心がけました。

剣道での「三殺法」とは、相手の剣・技・気を殺すことです。

具体的には、

 

1,剣を殺す

相手の竹刀を払ったり、押さえたり、巻いたりして打ちを制すること。私は打ち合いの中でも単に打つのではなく、相手の竹刀を払い、擦り上げ、押さえ、巻き、反撃を封じ込め連打に結びつけました。

2,技を殺す

常に先を取り、先手先手に技を出し、相手に技を出す隙を与えないよう心がけました。

3,気を殺す

自分の気力を充実させ、常に先を取り、相手が打とうとするところ、気合いを発して自分の気を盛り上げようとするところを押さえ相手の気力が重質するタイミングをくじいてしまうよう心がけました。。

 

高校時代、私の剣道は、攻めて攻めて打ちまくる剣道なので、まさに三殺法を駆使して、頭を使って相手のいやがることをする稽古を必死でしました。

もう一つ、私たちの地力をアップすることにつながったのは、大杉先生のマンツーマン稽古です。

大杉先生はこのころまだ現役で試合に出ておられたので、その稽古相手として、私と松葉、堀が順番に一人ずつ残って、30分間大杉先生の打ち込み台になるのです。

打ち込み台といっても、ただ立っていれば良いわけではありません。上段の大杉先生が言うとおりに攻めて打ち、それに対して大杉先生が技を出すということもしました。

大杉先生の上段の構えとお相手できたので、大学になり社会人になってからも上段を気にしないで剣道ができました。日本一の上段に比べれば、その後出会った上段の選手は取るに足らない、何する物ぞと、怖じけることはありませんでした。

 

そんな稽古をしていました。

2年の年末に、市岐商が東海地区や関西方面の剣道有名校を集めて行っている錬成会に参加しました。かなりのレベルの剣道有名校が集まっていましたが、互角に渡り合った記憶です。

「市岐商にだけは絶対負けない」と決めて臨んだ錬成会でした。その決意通り、市岐商とは何度か対戦しましたが、一度も負けることなく、錬成会を終えました。

 

3年になり、「インターハイ」予選はすぐにやってきました。

新一年に中学校の岐阜県チャンピオンが入ってきました。私たちの道場の後輩です。大杉先生は上級生を重んじ、少々強いからといっても、入学したばかりの1年生は選手には入れない方針でしたが、彼だけは別格で、レギュラーに抜擢しました。

戦力が上がっての「インターハイ」予選本番です。

今となっては細かい内容は覚えていません。私が唯一覚えているのは、「打倒、市岐商」の合い言葉のもと、みんなでがんばってきた市岐商戦ではありません。市岐商とは結果として出来ませんでした。私たちは、準決勝で「市岐商」ではなく、県岐商に敗退しました。

スコアは覚えていません。ただ、私が負けました。

県岐商の私の相手は小学校から同じ道場で稽古してきて、一度も一本も取られたことの無かったW君。私は一本も取られたことは無かったけれど、決して弱いわけではありません。県岐商のキャプテンです。取られたのは小手ですが、竹刀以外の部分には触れられていません。全くの審判の見間違いでした。

一本取られた後は、W君は全く打つ気無く逃げ回りました。弱ければまだしも、実力のある子が間合いには入ってこないで、ぐるぐると試合場を逃げ回りました。反撃が出来ませんでした。

試合後にW君が私に、

「すまんな宮崎、まともにやったら勝てるわけないで、逃げさせてもらった。」

小学校から一度も一本も取ったことの無かった彼が、たとえ誤審とはいえど初めて私に勝つチャンスだったのです。一緒に道場で剣道をやってきた仲間です。彼を責めることは出来ませんでした。

決勝戦では、県岐商は市岐商に全く良いところ無く、5-0で負けました。そして、私たちに一度も勝ったことの無かった市岐商がインターハイの切符を手に入れました。

悔しくて、悔しくて、悔やんでも悔やみきれませんでした。私は相手に体のどこにも触らせていない。へたくそな審判のために、負けにされてしまった。誰が審判だったのか全く記憶にはないですが、恨みました。

 

どんな努力も、へたくそ審判の前にはすべてが水の泡なのだということを思い知りました。

中学の時は、全国大会のかかった試合で代表戦に出ることができず、高校では誤審に泣きました。

 

東海大会では三重県1位のいる予選リーグを勝ち上がり、ベスト4に駒を進めました。準決勝で愛知県1位の東海高校に負けました。市岐商も予選リーグを勝ち上がりましたが、静岡県の高校に負けです。インターハイ予選ではなく、東海大会3位決定戦でようやく市岐商と対戦することになりました。

結果は以前の練習試合と同じような展開で、3-1で私たち岐阜北校の勝ちでした。

「打倒市岐商」は果たせましたが、インターハイの夢は叶いませんでした。

 

東海大会後、国体強化メンバーのお誘いがありましたが、受験勉強に力を注ぎたいからということで辞退し、高校での剣道は締めくくりとなりました。

館長の剣道修行(10) 岐阜北高校剣道部 その2 国体強化練習とタコ踊り

岐阜県立岐阜北高等学校に進学しました。

 

合格発表当日校門につくと、剣道部顧問の大杉二郎先生が待っていらっしゃって、

「合格おめでとう。明日から稽古に来いよ、松葉くんも一緒に。」

と、私の合格と中学の剣道部で一緒だったライバル兼一番の友達、松葉の合格も同時に知らされました。

さらに、小学校六年時、私が道場を移ってすぐ行われた土用稽古最終日の学年別試合優勝者、堀も同じく岐阜北高に合格していることがわかりました。

彼は中学時代、部活の帰り道、ちょうどひったくり事件に遭遇し、ひったくり犯を取り押さえ警察官に引き渡したという武勇伝の持ち主でした。

堀は身長があり、剣道は正統派で強い剣道です。構えがしっかりしていて、中心を外さない。鋭い構えのまま、真ん中を攻めての面が得意技。もちろん、一通りの応じ技もこなします。

松葉も遠間からの面が得意ですが、堀はまた違ったタイプの強さがあります。

 

実は私たち3人は密かに、「3年になったらインターハイ狙える」そう思っていました。

あとから聞いた話ですが、大杉先生も「こいつらが3年になった時には絶対インターハイに連れて行く」と考えておられたそうです。

 

高校のころどんなことがあったか、いくつか思い出すことを書いていきます。

 

インターハイ予選は3年生主体のチームで、私には関係なく終わりました。そのインターハイ予選のあとだったと思いますが、国体候補選手の強化練習が私たちの高校でありました。顧問の大杉先生が少年男子の監督を務めておられたので北高での練習会となったのでした。

私たち部員も国体候補選手に混じって稽古をさせてもらいました。 その中で印象に残っていることが一つだけあります。

ちょっと変わった試合練習でした。過去の試合成績などから、ランク付けされただいたい6~7人のグループに別れ、一本勝負の勝ち抜き試合を行います。下のランクで5人勝ち抜けば上に上がれます。何回か連続で負けると下に落ちます。最上のグループで勝ち抜いたら面を取って休憩できます。

そんなルールで試合を始めます。私たち北校生は自分の好きなグループに分かれて入ります。私と松葉はだいたい最上のグループに入りました。そして、はじめに面を取って休むのが私。松葉は私が試合をしているうちは試合をしないで、私が勝ち抜けたあと5人抜きをします。

はじめに面を取って休むのは、国体強化メンバーではなく、私と松葉でした。

いまはこれが1年の時だったか、2年の時だったか記憶が定かではありません。たぶん、1年だったと思いますが、両方だったかもしれません。

短い時間の試合練習で速く一本を取るというのは、私の得意とするところでした。初めて私と戦う相手は、足を使い翻弄し、速い攻めから打ち、さらに打ち始めたら技をつなぎ、しかも反撃しようとすると打ち合いの中でも応じ技があるという剣道に、試合開始直後は突然の猛攻に対応しにくいので面食らってしまうのでした。

今でも、私が子供たちに教えている剣道の原点はここです。

 

足捌き。無駄なく素早い足捌きが出来ることは大きな武器です。

あと打ち。相手が出ようとすれば打つ、下がれば打つ、避ければ打つ、そして外れたら打つ、当たるまで打つ、一本取るまで打つ。相手の打ちには必ず応じ技、そしてそれが外れたらやはり当たるまで打つ。

なかなか出来ませんが、徹底的にこれら二点を意識します。

今時の中学生がよくやる、「三所隠し」という反則がありますが、私たちの教わった雙柳館では、範士八段淺川春男先生に、そんな格好は「タコ踊り」だといわれました。

 

 

しかし、今では全国の警察官が広めた「タコ踊り」が大流行で、中学生は反則とはなっているものの、厳格に反則をとれる審判が少なくて、ましてや中体連の先生方では全く役に立ちません。

高校になれば反則でなくなるので、「タコ踊り」が中段の構えに変わる新しい構えのようです。お互いに「タコ踊り」から鍔ぜりになり、鍔ぜりからの分かれるふりしてのだまし討ちが、高校生上位者の試合決着パターンになっています。

「タコ踊り」は中学・高校に収まらず、大学生も全盛です。

当然、全日本剣道選手権(警察官)でも大全盛。

世界剣道選手権でも「タコ踊り」は日本(警察官)と韓国のお家芸となっていますね。

 

むしろ、武道の精神や刀の操法を重んじるヨーロッパ諸国が本来の剣道を尊重し、警察官のお家芸である「タコ踊り」のような恥ずかしい剣道はやらない傾向です。

柔道はオリンピック競技になり柔道が柔道でなくなったといわれますが、剣道は全く逆です。

剣道は日本(主に警察官)自らが勝ち負けにこだわるあまり、韓国と共に本来の刀の操法・刀を意識した件の理法を忘れ「タコ踊り」の道を選んで邁進しています。剣道界を引っ張っていくべき警察官が最も多く「タコ踊り」を実践し、広めています。

 

私たちが高校の頃はまだあまりいなかったと思います。先生が「タコ踊り」はイカン、としかってくださっていました。

 

話はそれましたが、国体候補選手の強化練習の思い出でした。

館長の剣道修行(9) 岐阜北高校剣道部 その1 ライバル再び

中学校を卒業し、1978年(昭和53年)4月高校へ進学です。

 

 

といきたいところですが、私たちの属する岐阜の学区では、進学校を受験するには、自分の行きたい高校を直接受験できない制度になっていました。

 

高校間の格差をなくすという名目で、自分の行きたい高校を受験できないという制度でした。

五つの群に5つの高校を2校ずつ振り割り、2校で1組の群で受験させます。

 

長良高校 岐山高校 加納高校 岐阜北高校 岐阜高校 の五校が

1群 長良高校 岐阜高校

2群 長良高校 岐山高校

3群 岐阜北高校 岐山高校

4群 岐阜北高校 加納高校

5群 岐阜高校 加納高校

という群に振り分けられています。

このうちの一つの群を受験することになっていました。

格差をなくすという観点で見直された学校群制度でしたが、5群が最も高得点が必要とされ、1群で岐阜高校に入れるなんてなんてラッキーなんだという声も聞かれました。

実際、岐阜高校は1群からの生徒と5群からの生徒は、大きな成績の格差があったようで、教える側も教わる側も共に大変だったと聞いています。

 

中3の8月、東海大会が終わると部活を引退します。

9月に体育の教師を通して、県内では剣道に力を入れていた、ある私立高校から来てくれないかというオファーがあったと聞きました。

私の成績は中1の頃は、まあかなり良い方でしたが、2年の時に部活にかまけ勉強をサボり、5教科で150点以上落ちていました。

部活引退をきっかけに、「成績を元に戻すぞ。」と意気込んで勉強に励んでいました。

私立高校のオファーについては体育の教師に、

「すいません。勉強して進学校に行きたいので断ってください。」

と申し出ました。

 

その後も、インターハイ常連校(公立の実業高校)から、受験してくれないかというオファーがありましたが、勉強で進学校に行きたいという姿勢を貫き、勉強に励みました。

その甲斐もあって、テストの成績は一番難しいとされる群でも楽に合格できる位には持ち直しました。

 

当時の進学校では、岐阜国体優勝メンバーが2人顧問をしておられました。

岐阜高校には、1964年(昭和39年)岐阜国体で大将を勤められた、村瀬隆平先生がいらっしゃいました。

村瀬先生は、1966年(昭和41年)には第14回全日本剣道選手権にて、準優勝の成績を収められています。

びっくりすることは、1959年大学1年より剣道を始められたにもかかわらず、1962年大学4年次の東海学連大会で大勝を努められ、中京大学との決勝戦の大将戦を制し優勝されたことです。

それだけでなく、岐阜国体では剣道歴6年で国体優勝チームの大勝。

全日本剣道選手権準優勝時でさえ剣道歴8年なのです。

 

 

岐阜北高校には、岐阜国体で中堅を務められた大杉二郎先生がいらっしゃいました。

全日本剣道選手権は先生方のうちのどちらかが出場。

段別選手権、七段の部も決勝は村瀬対大杉という黄金時代でした。

 

中学校の方では私は中3の2学期から成績が急上昇しましたので、内申のことを考えると、テストの点では5群を受けても大丈夫とはいっても、内申を考えると実は3群でも危ないといわれ、安全策をとって5群ではなく4群を受けることにしました。

 

大杉先生は以前から存じ上げていたので、4群を受験することは大杉先生には伝えていました。

受験当日、5教科とも満点かと思えるほどの出来だと思いましたが、自己採点すると2問間違えていました。

いずれにしても合格は間違いないだろうということで、ほっとしたことを覚えています。

 

さて、合格発表の日校門につくと、大杉先生が私を見つけるなり

「宮崎くん、合格おめでとう、松葉も誘って明日から稽古に来いよ。」

と、自分で番号を確認する前に合格を知り、親友の合格も知り、稽古のお誘いを受けました。

 

これから私の高校での剣道修行が始まります。

館長の剣道修行(8) 中学剣道部 その5 試合成績など

この辺で、中学時代を締めくくることにして、最後に記憶にある成績を書いておきます。

 

個人戦

中3で県大会(段別選手権)中学生の部 三位でした。

 

団体戦

記憶にあるのは、中1 市大会3位そのあと記憶なし。たぶん東海大会行っています。

中2 記憶なし。たぶん東海大会は行っています。

中3 中体連(学校単位)の市・地区は記憶なし。

水都祭県大会 優勝

県大会は準優勝?

全中予選(この頃は中体連県大会のベスト4でリーグ戦をやって出場校を決めていたと思う)は、最後決勝戦で勝者・勝本数ともに同数となり、代表戦。

代表戦の相手は、同じ道場で、当時道場最強(構えが良い、打ちが良い、面が良い、しかし、試合をすると私が勝つ)だった高野君。

しかし、私は高野君が得意で、彼も私が出てきたら勝てないと思っていた。

当然代表戦は自分が出るものと思っていた。

 

しかし、先生が告げたのはKくん。

なぜだ?

 

Kくんというのは中学から始めた子で、運動センスがもの凄く良い子だった。

ただし、勝てないと拗ねるので気分を盛り上げてやるために、私も松葉も学校内の試合練習では、わざと負けてやっていたんだ。

当然、まともにやれば松葉も私もKくんに負けるわけがない。

試合前の学校での試合練習でも同じように負けてやっていた。

先生はそれを真に受けていたんだ。

 

 

まさか、こんなところで自分のチームの内部で予期せぬことが起こってしまった。

 

残念ながら私たちの全国大会の夢は、あっけなく飛んで行ってしまった。

当然Kくんでは、道場最強の高野くんにかなうはずがない。

 

試合後、

「何で、宮崎が出てこんかったんや? 宮崎なら絶対加点勝ったと思うわ。」

「普段の稽古での芝居がうますぎたんや。」

「何やそれ。」

という会話が交わされたのはいうまでもない。

 

その後の東海大会で島中学校としての中学時代の試合はおしまいです。

 

 

道場の大会で、道場チームで団体戦に出たことがあります。

中3の時です。

 

たしか、

先鋒 松葉

次鋒 須田(2年)

中堅 宮崎

副将 岡野(2年)

大将 高野

というチームだったと思う。

違ってたらごめん。

 

中部地区大会です。

結果は優勝。

それも、危ない試合は一つもなかった記憶です。

 

日本武道館での全国大会は道場で出ています。

たぶん、3回戦ぐらいで負けました。

 

中学時代の記憶でもう一つ印象に残っているのが、

中1から中2にあがるときの春休みに、道場連盟のイベントで、モーターボート振興会の本栖湖合宿所で、1週間くらい各県からの選抜5名が集まり、講習会に出させてもらったことです。

 

見事に各県を代表する選手が集まりました。

私たちの部屋にはたまたま、後にインターハイやインカレで大活躍することになる子が一緒で、センスにあふれる強い剣道を見ることができました。

どうやったらそんな打ちができるのか?

当時の私にとっては想像もつかないことでしたが、目の前で見て、実際立ち会い打たれ、どうやるのか教えてもらった良い経験でした。

 

中学時代の私は剣道が楽しくて楽しくて仕方ありませんでした。

館長の剣道修行(7) 中学剣道部 その4 「先」の気持ち

中学時代の私の剣道について書いています。

 

私の中学時代の剣道・試合のやり方は、

1,声を大きく

2,相手と構えて向き合ったとき、自分を主人公として剣道の攻めを考える

3,打って打って打ちまくる

 

簡単にいうと、やることは以上三つだということを書いています。

 

 

1の声を大きくということについて、

声なんか関係ないじゃん、声なんか出ていなくても、しっかりした打ちであいての面・小手・胴を打てばいいやないか。

と思われる方も多いでしょう。

実際、声の大きさは関係ないかもしれませんが、やはり、強い人・高段者・よい先生は声はしっかりしていて(大きい・力強い・鋭い・怖い)、小さい・声に力がない・のんびりした声の人はまず強い人はいません。

 

2の相手と向き合ったとき自分が主人公ということは、剣道の言葉で言うと、「先を取る」ということです。

必ず、何事も自分からです。

いつも気持ちは自分から。

外からみていると相手が先に打っているような場面でも、必ず、「私がこうしたら相手が打ってくる」という気持ちに持って行く癖をつけると、応じ技が今までより決まるようになります。

「先を取る」、「先の取り合い」が剣道の攻めです。

 

ある意味「打つ」ことよりも大切かもしれません。

打ちのスピード、足の速さ、足捌き、踏み込みの鋭さ、連打の早さ等には限界があります。

しかし、「先を取る」気持ち、「攻め」をいつも考えて剣道をしていると、限界を超えることができます。

剣道は、攻めによって動く相手を打ちます。

 

しっかり構えて、全く動かない、竹刀を払っても押さえても、ぴたりと剣先がのどに戻る相手は、なかなか打てるものではありません。

 

私は五十歳を超え剣道歴は四十年以上になりました。

 

中学校時代は試合において、自分から仕掛けて面を一本取る自信はありませんでした。

しかしスピードは合ったと思います。

 

高校時代も中学時代よりスピードは増しました。

 

大学時代、この頃が物理的スピードのピークだったと思います。

 

二十台は大学までの剣道をキープ、三十台が大学より力が落ちてきたことを認識し、五段を取得したころは大学時代の方が力は上だったと思いました。

 

四十台、六段~七段。

この頃、スピードや力にとらわれない剣道に気づきました。

 

そして今。

五十台になって、今、過去最高に速い面を打っています。

確信です。

 

「先」をとること、攻めを意識した剣道は、自分の肉体の限界を超えることができます。

五十代になって最速の面が打てる。

もちろん、小手も面も胴も突きも。

剣道っておもしろい。

 

中学時代、私は「攻め」のほんの先っぽ部分、自分を主役にして試合の組み立てを考える。

ということをしていました。

 

館長の剣道修行(6) 中学剣道部 その3 試合の勝ち方

私の中学時代の剣道は、

蝕刃の間から一足一刀の間へ、入り際を打たれないように入り、渡って(相手の竹刀を押さえつつ、間を詰めていく)間を詰め、あとは打って打って打ちまくる。

あるいは、面にいくぞと攻め、相手が面の勝負にこれば、出小手、抜き胴、返し胴。

あるいは、相手がこちらの出小手を予想して、面を攻めながらこちらの出小手を打つ竹刀を打ち落とす小手面を狙ってくるなら、それ以上の速い小手面。または、小手面を打たせそれに合わせた小手胴。

試合や稽古で、小技ができて、技の組み立ても考えて攻める、相手の裏をかき自分の打ちの裏をかく、相手にとってはやりにくかったと思います。

 

試合や稽古では、連打で勝負するんだということはいつも思っていましたが、それ以外でも心がけていたことがあります。

いわば、「試合の勝ち方」とでも申しましょうか

 

 

 

一つめは、

同じ攻め入りで何通りも決め技を変えて一本とれるようにしておくこと。

例えば、お互い一足一刀の間合いで向き合い、こちらが面を打っていったら、相手はそのまま手元をあげ、竹刀の表(真上から見て竹刀の左側)で面をよけられたとすると。

こんな場合は、同じ間合いから同じ入り方で面を打ちにいき(気持ちだけ)、途中から相手の手元があがったところを小手に落とす。あるいは胴を切る。

 

一つの同じ攻め口から何通りかの技を打つ。

 

野球でいうなら、同じフォームからストレート・カーブ・スライダーが投げられるような感じなのでしょうか。

野球より距離が近いので、早めに避けに回る相手は私にとっては得意な相手でした。

 

いつも試合を意識して、稽古の中で何度でも練習することが大切です。

 

 

二つ目は、

相手が打ってくるとき竹刀だけで相手の打ちを避けないこと。

できれば脚だけで避けるか、体捌きで避ける。

相手の打ってきた刀の下に体を置かない。

竹刀で相手の打ちを避けても、脚を同時に遣う。

必ず応じ技につなげる。

ということです。

 

相手から打ってきた時は避けるのではなく、応じ技を出すチャンス。

条件反射のように、何も考えなくても自動的に体が反応して応じ技を出すというレベルまで、自分の得意な技は徹底的に反復練習しておく。

試合でも稽古でも、避けるだけの動きにならないこと、かならず応じ技につなげること。

応じ技は狙って相手をはめていくのも一つの方法だけど、反射的に、知らないうちに打っていたというレベルまで徹底的に反復練習すること。

 

いつも試合を想定し稽古をし、試合の時には稽古でやったことを自信にして思う存分好きなように、自分の剣道をする。

 

1,相手が何もしなければ、こちらから仕掛け、渡って連打に持ち込みどこからでも一本を取る。

2,相手が仕掛けてきたときは、応じ技のチャンス。

3,鍔迫り合いになったら、チャンス。

 

あと試合の組み立てを考えるとき、

相手がこう来たら・・・、○○する。

という考えは負ける剣道です。

 

あくまでも、

自分がこうしたら、相手は○○する、だからそこをこうやって決める。

というように、

 

必ず自分が主役になるよう考えます。

そして、主役の自分が必ず勝つストーリーで相手と戦う。

ハッピーエンドです。

 

こんな風に考えて剣道を、試合を、稽古をしていました。

 

 

今でも、中学生を指導していて思う試合の必勝法は、

1,大きな声を出すこと

2,連打を狙うこと

3,自分の苦手なこと、こちらが不利になること、相手が有利になることはしないこと

 

大きな声で連打が出ていると、試合の運はこちらに傾いてきます。

 

剣道の試合・審判規則によると

「有効打突は、充実した気勢、適正な姿勢をもって、竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるものとする。」(以上、全日本剣道連盟 試合・審判規則より引用)

とあります。

剣道で一本になる打ちは、大きな声・鋭い声・気迫のこもった声で、正しい姿勢で、竹刀の打突部(中結いから先の部分)で相手の打突部位(面・小手・胴・突き)を弦の反対側で、刃筋正しく打って、打ったあとも気を抜いていないことが必要です。

 

中学生向きに簡単に言うと、

「大きな声で、面・小手・胴を正しく打って、打ったあとも気を抜かないこと。」

 

第一の条件、声が大きいこと。

いつもの稽古も必死に声を出すようにやっていると当たり前ですが、声は出ます。

出ないと思い込んでいる人は、出ないと思っているから出ないだけ。

 

第二、相手よりたくさん打つ、どんどん打つ、当たるまで打つ。

相手が打ってこなければ打つ、打ってきたら打つ、避ければ打つ、外れたら打つ。

いつも、自分の限界まで必死になって打って打って打ちまくる練習をするので、できるようになる。

 

第三、打ったあとは絶対気を抜からない。

当たったと思っても、自分ではやめない。

審判に止められるまで、次の技を打つ。

面・小手・胴に当たっても当たらなくても、自分の打った打ちは一本決めるつもりの打ちをする。

 

それだけのことをするだけ。

 

何かに記録が残っているわけではないですが、中学時代の私は一年間で、一つか二つ負ける程度だったと思います。

私たちが中学生の頃は、中体連の団体戦の全国大会はありましたが、個人戦はありませんでした。

私たちの中学は部員が多く、団体戦の選手以外も稽古を一所懸命やっていたので、先生の方針で、団体戦に出た選手は個人戦には出ない。ということになっていました。

私たちもそれに納得し、私が中学時代に唯一出場した個人戦は、三年生の時の段別選手権のみです。

結果は三位でしたが、初めて出る中学の個人戦でしかもライバルの松葉を押さえて、選手に選んでいただいたので、何が何でも勝ち上がるんだという気持ちでした。

優勝したのは和知中学の長谷川君というこで、私は準決勝でこの選手に負けました。

長谷川君は道場連盟の個人戦で全国準優勝だったと聞いています。

 

 

さて、団体戦の方ですが、本当に私は負けるということがほとんどありませんでした。

大きい声で、スピードがあって、連打・あと打ちなど、打って打って打ちまくる。

このスタイルが自分に合っていたと思います。

 

声が大きくて、スピードがあって、相手より打ちまくって・・・。

相手から取ってくる技の1/3~半数は実は打突部位を外れた打ちでした。

しかし、剣道で一本になるための、条件のうち一つの条件「打突部位を」という部分がほんのちょっと、数センチあるいは十数センチ、数十センチずれているだけで、一本の範疇だったのです。

 

一本というのは審判の主観による総合評価なので、すべての条件が完璧に満たされていなくても、一本になります。

試合では自分が主役になり、相手を倒すヒーロー物語をハッピーエンドで終える。

それには、きちんと限界までやる稽古で繰り返し自分を追い込み、頼れる自分になっておく。

楽して勝つことはできません。

 

私はこのあたりものすごく、剣道って文学的だと思います。