館長の剣道修行(9) 岐阜北高校剣道部 その1 ライバル再び

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中学校を卒業し、1978年(昭和53年)4月高校へ進学です。

 

 

といきたいところですが、私たちの属する岐阜の学区では、進学校を受験するには、自分の行きたい高校を直接受験できない制度になっていました。

 

高校間の格差をなくすという名目で、自分の行きたい高校を受験できないという制度でした。

五つの群に5つの高校を2校ずつ振り割り、2校で1組の群で受験させます。

 

長良高校 岐山高校 加納高校 岐阜北高校 岐阜高校 の五校が

1群 長良高校 岐阜高校

2群 長良高校 岐山高校

3群 岐阜北高校 岐山高校

4群 岐阜北高校 加納高校

5群 岐阜高校 加納高校

という群に振り分けられています。

このうちの一つの群を受験することになっていました。

格差をなくすという観点で見直された学校群制度でしたが、5群が最も高得点が必要とされ、1群で岐阜高校に入れるなんてなんてラッキーなんだという声も聞かれました。

実際、岐阜高校は1群からの生徒と5群からの生徒は、大きな成績の格差があったようで、教える側も教わる側も共に大変だったと聞いています。

 

中3の8月、東海大会が終わると部活を引退します。

9月に体育の教師を通して、県内では剣道に力を入れていた、ある私立高校から来てくれないかというオファーがあったと聞きました。

私の成績は中1の頃は、まあかなり良い方でしたが、2年の時に部活にかまけ勉強をサボり、5教科で150点以上落ちていました。

部活引退をきっかけに、「成績を元に戻すぞ。」と意気込んで勉強に励んでいました。

私立高校のオファーについては体育の教師に、

「すいません。勉強して進学校に行きたいので断ってください。」

と申し出ました。

 

その後も、インターハイ常連校(公立の実業高校)から、受験してくれないかというオファーがありましたが、勉強で進学校に行きたいという姿勢を貫き、勉強に励みました。

その甲斐もあって、テストの成績は一番難しいとされる群でも楽に合格できる位には持ち直しました。

 

当時の進学校では、岐阜国体優勝メンバーが2人顧問をしておられました。

岐阜高校には、1964年(昭和39年)岐阜国体で大将を勤められた、村瀬隆平先生がいらっしゃいました。

村瀬先生は、1966年(昭和41年)には第14回全日本剣道選手権にて、準優勝の成績を収められています。

びっくりすることは、1959年大学1年より剣道を始められたにもかかわらず、1962年大学4年次の東海学連大会で大勝を努められ、中京大学との決勝戦の大将戦を制し優勝されたことです。

それだけでなく、岐阜国体では剣道歴6年で国体優勝チームの大勝。

全日本剣道選手権準優勝時でさえ剣道歴8年なのです。

 

 

岐阜北高校には、岐阜国体で中堅を務められた大杉二郎先生がいらっしゃいました。

全日本剣道選手権は先生方のうちのどちらかが出場。

段別選手権、七段の部も決勝は村瀬対大杉という黄金時代でした。

 

中学校の方では私は中3の2学期から成績が急上昇しましたので、内申のことを考えると、テストの点では5群を受けても大丈夫とはいっても、内申を考えると実は3群でも危ないといわれ、安全策をとって5群ではなく4群を受けることにしました。

 

大杉先生は以前から存じ上げていたので、4群を受験することは大杉先生には伝えていました。

受験当日、5教科とも満点かと思えるほどの出来だと思いましたが、自己採点すると2問間違えていました。

いずれにしても合格は間違いないだろうということで、ほっとしたことを覚えています。

 

さて、合格発表の日校門につくと、大杉先生が私を見つけるなり

「宮崎くん、合格おめでとう、松葉も誘って明日から稽古に来いよ。」

と、自分で番号を確認する前に合格を知り、親友の合格も知り、稽古のお誘いを受けました。

 

これから私の高校での剣道修行が始まります。

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