館長の剣道修行(8) 中学剣道部 その5 試合成績など

この辺で、中学時代を締めくくることにして、最後に記憶にある成績を書いておきます。

 

個人戦

中3で県大会(段別選手権)中学生の部 三位でした。

 

団体戦

記憶にあるのは、中1 市大会3位そのあと記憶なし。たぶん東海大会行っています。

中2 記憶なし。たぶん東海大会は行っています。

中3 中体連(学校単位)の市・地区は記憶なし。

水都祭県大会 優勝

県大会は準優勝?

全中予選(この頃は中体連県大会のベスト4でリーグ戦をやって出場校を決めていたと思う)は、最後決勝戦で勝者・勝本数ともに同数となり、代表戦。

代表戦の相手は、同じ道場で、当時道場最強(構えが良い、打ちが良い、面が良い、しかし、試合をすると私が勝つ)だった高野君。

しかし、私は高野君が得意で、彼も私が出てきたら勝てないと思っていた。

当然代表戦は自分が出るものと思っていた。

 

しかし、先生が告げたのはKくん。

なぜだ?

 

Kくんというのは中学から始めた子で、運動センスがもの凄く良い子だった。

ただし、勝てないと拗ねるので気分を盛り上げてやるために、私も松葉も学校内の試合練習では、わざと負けてやっていたんだ。

当然、まともにやれば松葉も私もKくんに負けるわけがない。

試合前の学校での試合練習でも同じように負けてやっていた。

先生はそれを真に受けていたんだ。

 

 

まさか、こんなところで自分のチームの内部で予期せぬことが起こってしまった。

 

残念ながら私たちの全国大会の夢は、あっけなく飛んで行ってしまった。

当然Kくんでは、道場最強の高野くんにかなうはずがない。

 

試合後、

「何で、宮崎が出てこんかったんや? 宮崎なら絶対加点勝ったと思うわ。」

「普段の稽古での芝居がうますぎたんや。」

「何やそれ。」

という会話が交わされたのはいうまでもない。

 

その後の東海大会で島中学校としての中学時代の試合はおしまいです。

 

 

道場の大会で、道場チームで団体戦に出たことがあります。

中3の時です。

 

たしか、

先鋒 松葉

次鋒 須田(2年)

中堅 宮崎

副将 岡野(2年)

大将 高野

というチームだったと思う。

違ってたらごめん。

 

中部地区大会です。

結果は優勝。

それも、危ない試合は一つもなかった記憶です。

 

日本武道館での全国大会は道場で出ています。

たぶん、3回戦ぐらいで負けました。

 

中学時代の記憶でもう一つ印象に残っているのが、

中1から中2にあがるときの春休みに、道場連盟のイベントで、モーターボート振興会の本栖湖合宿所で、1週間くらい各県からの選抜5名が集まり、講習会に出させてもらったことです。

 

見事に各県を代表する選手が集まりました。

私たちの部屋にはたまたま、後にインターハイやインカレで大活躍することになる子が一緒で、センスにあふれる強い剣道を見ることができました。

どうやったらそんな打ちができるのか?

当時の私にとっては想像もつかないことでしたが、目の前で見て、実際立ち会い打たれ、どうやるのか教えてもらった良い経験でした。

 

中学時代の私は剣道が楽しくて楽しくて仕方ありませんでした。

館長の剣道修行(7) 中学剣道部 その4 「先」の気持ち

中学時代の私の剣道について書いています。

 

私の中学時代の剣道・試合のやり方は、

1,声を大きく

2,相手と構えて向き合ったとき、自分を主人公として剣道の攻めを考える

3,打って打って打ちまくる

 

簡単にいうと、やることは以上三つだということを書いています。

 

 

1の声を大きくということについて、

声なんか関係ないじゃん、声なんか出ていなくても、しっかりした打ちであいての面・小手・胴を打てばいいやないか。

と思われる方も多いでしょう。

実際、声の大きさは関係ないかもしれませんが、やはり、強い人・高段者・よい先生は声はしっかりしていて(大きい・力強い・鋭い・怖い)、小さい・声に力がない・のんびりした声の人はまず強い人はいません。

 

2の相手と向き合ったとき自分が主人公ということは、剣道の言葉で言うと、「先を取る」ということです。

必ず、何事も自分からです。

いつも気持ちは自分から。

外からみていると相手が先に打っているような場面でも、必ず、「私がこうしたら相手が打ってくる」という気持ちに持って行く癖をつけると、応じ技が今までより決まるようになります。

「先を取る」、「先の取り合い」が剣道の攻めです。

 

ある意味「打つ」ことよりも大切かもしれません。

打ちのスピード、足の速さ、足捌き、踏み込みの鋭さ、連打の早さ等には限界があります。

しかし、「先を取る」気持ち、「攻め」をいつも考えて剣道をしていると、限界を超えることができます。

剣道は、攻めによって動く相手を打ちます。

 

しっかり構えて、全く動かない、竹刀を払っても押さえても、ぴたりと剣先がのどに戻る相手は、なかなか打てるものではありません。

 

私は五十歳を超え剣道歴は四十年以上になりました。

 

中学校時代は試合において、自分から仕掛けて面を一本取る自信はありませんでした。

しかしスピードは合ったと思います。

 

高校時代も中学時代よりスピードは増しました。

 

大学時代、この頃が物理的スピードのピークだったと思います。

 

二十台は大学までの剣道をキープ、三十台が大学より力が落ちてきたことを認識し、五段を取得したころは大学時代の方が力は上だったと思いました。

 

四十台、六段~七段。

この頃、スピードや力にとらわれない剣道に気づきました。

 

そして今。

五十台になって、今、過去最高に速い面を打っています。

確信です。

 

「先」をとること、攻めを意識した剣道は、自分の肉体の限界を超えることができます。

五十代になって最速の面が打てる。

もちろん、小手も面も胴も突きも。

剣道っておもしろい。

 

中学時代、私は「攻め」のほんの先っぽ部分、自分を主役にして試合の組み立てを考える。

ということをしていました。

 

館長の剣道修行(6) 中学剣道部 その3 試合の勝ち方

私の中学時代の剣道は、

蝕刃の間から一足一刀の間へ、入り際を打たれないように入り、渡って(相手の竹刀を押さえつつ、間を詰めていく)間を詰め、あとは打って打って打ちまくる。

あるいは、面にいくぞと攻め、相手が面の勝負にこれば、出小手、抜き胴、返し胴。

あるいは、相手がこちらの出小手を予想して、面を攻めながらこちらの出小手を打つ竹刀を打ち落とす小手面を狙ってくるなら、それ以上の速い小手面。または、小手面を打たせそれに合わせた小手胴。

試合や稽古で、小技ができて、技の組み立ても考えて攻める、相手の裏をかき自分の打ちの裏をかく、相手にとってはやりにくかったと思います。

 

試合や稽古では、連打で勝負するんだということはいつも思っていましたが、それ以外でも心がけていたことがあります。

いわば、「試合の勝ち方」とでも申しましょうか

 

 

 

一つめは、

同じ攻め入りで何通りも決め技を変えて一本とれるようにしておくこと。

例えば、お互い一足一刀の間合いで向き合い、こちらが面を打っていったら、相手はそのまま手元をあげ、竹刀の表(真上から見て竹刀の左側)で面をよけられたとすると。

こんな場合は、同じ間合いから同じ入り方で面を打ちにいき(気持ちだけ)、途中から相手の手元があがったところを小手に落とす。あるいは胴を切る。

 

一つの同じ攻め口から何通りかの技を打つ。

 

野球でいうなら、同じフォームからストレート・カーブ・スライダーが投げられるような感じなのでしょうか。

野球より距離が近いので、早めに避けに回る相手は私にとっては得意な相手でした。

 

いつも試合を意識して、稽古の中で何度でも練習することが大切です。

 

 

二つ目は、

相手が打ってくるとき竹刀だけで相手の打ちを避けないこと。

できれば脚だけで避けるか、体捌きで避ける。

相手の打ってきた刀の下に体を置かない。

竹刀で相手の打ちを避けても、脚を同時に遣う。

必ず応じ技につなげる。

ということです。

 

相手から打ってきた時は避けるのではなく、応じ技を出すチャンス。

条件反射のように、何も考えなくても自動的に体が反応して応じ技を出すというレベルまで、自分の得意な技は徹底的に反復練習しておく。

試合でも稽古でも、避けるだけの動きにならないこと、かならず応じ技につなげること。

応じ技は狙って相手をはめていくのも一つの方法だけど、反射的に、知らないうちに打っていたというレベルまで徹底的に反復練習すること。

 

いつも試合を想定し稽古をし、試合の時には稽古でやったことを自信にして思う存分好きなように、自分の剣道をする。

 

1,相手が何もしなければ、こちらから仕掛け、渡って連打に持ち込みどこからでも一本を取る。

2,相手が仕掛けてきたときは、応じ技のチャンス。

3,鍔迫り合いになったら、チャンス。

 

あと試合の組み立てを考えるとき、

相手がこう来たら・・・、○○する。

という考えは負ける剣道です。

 

あくまでも、

自分がこうしたら、相手は○○する、だからそこをこうやって決める。

というように、

 

必ず自分が主役になるよう考えます。

そして、主役の自分が必ず勝つストーリーで相手と戦う。

ハッピーエンドです。

 

こんな風に考えて剣道を、試合を、稽古をしていました。

 

 

今でも、中学生を指導していて思う試合の必勝法は、

1,大きな声を出すこと

2,連打を狙うこと

3,自分の苦手なこと、こちらが不利になること、相手が有利になることはしないこと

 

大きな声で連打が出ていると、試合の運はこちらに傾いてきます。

 

剣道の試合・審判規則によると

「有効打突は、充実した気勢、適正な姿勢をもって、竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるものとする。」(以上、全日本剣道連盟 試合・審判規則より引用)

とあります。

剣道で一本になる打ちは、大きな声・鋭い声・気迫のこもった声で、正しい姿勢で、竹刀の打突部(中結いから先の部分)で相手の打突部位(面・小手・胴・突き)を弦の反対側で、刃筋正しく打って、打ったあとも気を抜いていないことが必要です。

 

中学生向きに簡単に言うと、

「大きな声で、面・小手・胴を正しく打って、打ったあとも気を抜かないこと。」

 

第一の条件、声が大きいこと。

いつもの稽古も必死に声を出すようにやっていると当たり前ですが、声は出ます。

出ないと思い込んでいる人は、出ないと思っているから出ないだけ。

 

第二、相手よりたくさん打つ、どんどん打つ、当たるまで打つ。

相手が打ってこなければ打つ、打ってきたら打つ、避ければ打つ、外れたら打つ。

いつも、自分の限界まで必死になって打って打って打ちまくる練習をするので、できるようになる。

 

第三、打ったあとは絶対気を抜からない。

当たったと思っても、自分ではやめない。

審判に止められるまで、次の技を打つ。

面・小手・胴に当たっても当たらなくても、自分の打った打ちは一本決めるつもりの打ちをする。

 

それだけのことをするだけ。

 

何かに記録が残っているわけではないですが、中学時代の私は一年間で、一つか二つ負ける程度だったと思います。

私たちが中学生の頃は、中体連の団体戦の全国大会はありましたが、個人戦はありませんでした。

私たちの中学は部員が多く、団体戦の選手以外も稽古を一所懸命やっていたので、先生の方針で、団体戦に出た選手は個人戦には出ない。ということになっていました。

私たちもそれに納得し、私が中学時代に唯一出場した個人戦は、三年生の時の段別選手権のみです。

結果は三位でしたが、初めて出る中学の個人戦でしかもライバルの松葉を押さえて、選手に選んでいただいたので、何が何でも勝ち上がるんだという気持ちでした。

優勝したのは和知中学の長谷川君というこで、私は準決勝でこの選手に負けました。

長谷川君は道場連盟の個人戦で全国準優勝だったと聞いています。

 

 

さて、団体戦の方ですが、本当に私は負けるということがほとんどありませんでした。

大きい声で、スピードがあって、連打・あと打ちなど、打って打って打ちまくる。

このスタイルが自分に合っていたと思います。

 

声が大きくて、スピードがあって、相手より打ちまくって・・・。

相手から取ってくる技の1/3~半数は実は打突部位を外れた打ちでした。

しかし、剣道で一本になるための、条件のうち一つの条件「打突部位を」という部分がほんのちょっと、数センチあるいは十数センチ、数十センチずれているだけで、一本の範疇だったのです。

 

一本というのは審判の主観による総合評価なので、すべての条件が完璧に満たされていなくても、一本になります。

試合では自分が主役になり、相手を倒すヒーロー物語をハッピーエンドで終える。

それには、きちんと限界までやる稽古で繰り返し自分を追い込み、頼れる自分になっておく。

楽して勝つことはできません。

 

私はこのあたりものすごく、剣道って文学的だと思います。

館長の剣道修行(5) 中学剣道部 その2 友=ライバル

中学校に入って剣道部での稽古について書いています。

 

同級生に「松葉」というライバルがいて、部活で稽古していると、時々とっくみあいになってしまうほど負けん気がお互い強く、意地を張り合っているが一番の友でした。

 

先生はとにかくいつも部活にいる。

研究授業でほかの部が休みの日でも、

「今更僕は研究して勉強する必要はないからいかない。」

職員会議があってほかの部活は活動できなくても、

「僕は職員会議は関係ないからいかない。」

だから、部活の休みはない。

そんな生活を送っていました。

 

さて、中学時代の私の剣道についてです。

私はどんな剣道をしていたのか?

どんなタイプだったのか?

 

小学校六年で雙柳館淺川道場に入ってから、私の剣道は大きく変わりました。

雙柳館に入る前は、お互い構えあったところからごまかしながら鍔迫り合いになり、引き面か引き胴を狙う剣道でした。

 

雙柳館に入ってから変わったこと。

1,足捌きが速くなった。

2,小手が打てるようになった(一足一刀からのせめて小手、出小手、担ぎ小手)

 

以前からの技に磨きをかけたこと

1,引き面がパワーアップした。

2,引き胴がパワーアップした。

 

中学になって変わったこと

1,面抜き胴、面返し胴が打てるようになった。

2,小手面が速くなった。

3,体力がついた。

 

1年生の夏の大会が始まる頃には自分でも強くなったという実感がありました。

何より足捌きに自信が持てるようになったことが大きく剣道を変えました。

苦手だった踏み込みが全く気にならなくなり、面もある程度速くなったのですが、まだ松葉なんかには面で勝負はできません。

道場にはほかにも、身長があり攻めが強く面打ちの速い同級生が大勢いて、私の身長でいくら速くなっても上から先に乗られてしまいます。

ですから私は構えあってじっと攻めて面で勝負ということは避けていました。

捨て技で「速い面があるぞ」と、絶対応じ技ができないタイミングで当たらない面を見せておいて、別の技を仕掛けることはしました。

一足一刀の間から面で勝負はしません。

ふりだけ。

面で勝負と見せておいてほかで討ち取る。

 

 

難しい表現なしで簡単に言うと、

私の剣道は、

蝕刃の間から一足一刀の間へ入るとき、入り際の出端を打たれないようにして、そのまま、あるいは間を置いて、渡って間を入っていき、あとは連打で打って打って打ちまくる剣道です。

団体戦は長くても3分、掛かり稽古で限界まで追い込んだ稽古をしているので、細切れの連打なら3分間では体力がきれることはありません。

思い返してみても3分間フルに攻め続けることはなかったと思います。

 

たいてい速い時間帯で1本とれるので、1本とったあとは攻めて打つぞというふりをしていると、相手の方から仕掛けてくるので、面に来るなら出小手や抜き胴・返し胴、面すりあげ小手、よけておいての引き胴、引き面、小手に来るなら、小手打ち落とし面、小手すりあげ面、小手すりあげ小手、小手返し面等、応じ技のバリエーションも増えていたので、楽にもう一本とれました。

 

正統派のしっかりした構えで中心をせめて面を狙う、強いタイプはむしろ得意でした。

雙柳館にもそういうタイプの本当に強い同級生がいましたが、私は負けたことがありませんでした。

松葉はそこまで構えもしっかりではありませんでしたが、とにかく面と小手面が速く、出小手も得意で遠間からの勝負ができるタイプでした。

松葉は私といつも稽古で死闘しているので、私の連打や応じ技のスピードに慣れ隙がなくなってきて、なかなか私も簡単には打てなくなっていました。

私の方も遠間からの速い打ちにだんだん慣れてきて、少々の面のスピード自慢なら、松葉に比べれば屁のカッパだと思えるようになっていました。

 

中学で出た試合は今では1試合覚えているだけですが、それは中学に入って初めて出た市大会でした。

市大会の準決勝だったと思います。

私のチームは、先鋒に松葉、次鋒3年生、中堅高橋、副将3年生、大将宮崎という編成でした。

相手チームは同じ雙柳館の3年生の先輩が2人入っているチームでした。

たしか、1年2人勝って3年が2人負け2-2の大将戦になり、相手は当然道場の先輩ですが、1本とられ負けてしまいました。

松葉にはおまえのせいで負けたといわれましたが、確かに自分のせいなので、あの先輩だからといいわけもしましたが、う~ん今回は参った、という感じでした。

俺は強いと思って頭に乗っていたところの、鼻っ柱を思いっきり殴られたような気がしたことを覚えています。

これが良い薬になって、また稽古に打ち込みます。

 

つづきます。

館長の剣道修行(4) 中学剣道部 その1 限界までやる

館長の剣道修行(4)

宮崎少年、中学生になりました。

中学生になった私は、小学生と一緒に稽古することはなくなりました。

週1回土曜日、小学生の稽古終了後が中学生の時間です。
大勢いた小学生の頃の道場の同級生は、道場チームの試合のメンバーになれなかったものの多くが道場をやめて、部活でも剣道を続けるわけではなく、剣道から離れていきました。

中学では別の競技で自分の力を試してみたいと考えたのでしょう。

私にとっては、剣道が、道場も中学での部活も楽しくて仕方のないものでした。
島中学校は当時、小学生だけで通える道場が近くになかったので、剣道部の先輩に剣道の小学校からの経験者が少なく、雙柳館の同級生たちには、
「おまえの中学は毎年1回戦5-0負けやぞ。」
などといわれてバカにされました。
が、これは裏を返せば私たちが島中学校の剣道部では一番強いということになります。

しかも、私を含めて3人雙柳館から入っていたので、心強かったものです。
8月の土用稽古の試合での優勝者(松葉という)、3位の私、ベスト8(高橋という)。
ほかの同級生たちは中学校がばらばらになるので、3人集まった私たちは相当強いはずです。
なぜかはわからないけど、自分たちは強いと思い込んでいて、強いと思うし、もっと強くなりたいからきつくても稽古をする、稽古をするともっとどんどん強くなると思い込んでいたので楽しい、楽しいから稽古をさらに一生懸命やる。

そんな善循環がおこっていました。

顧問はまだ若い元気がある、高橋という先生。
そして、前任校で全国大会に連れて行った経験のある清水薫先生が島中に赴任されました。

私も松葉もなぜか剣道はもちろん何をやるにしても、根拠のない自信があって、1年生に入ったばかりなのに、市大会なんかはいきなり上位にあがれると思い込んでいました。

松葉と私は小学校の頃からライバル視しあっていて、剣道では絶対こいつにだけは参ったといいたくないと、毎日の部活の稽古も週一回の道場でも意地を張り合っていました。

いつだったか稽古をしていて、小手が肘に外れたことがきっかけで、だんだんワザと防具のないところを狙って打ち合うようになり、鍔迫り合いからとっくみあいになり、小手を外し、面がとれ、胴が外れ、柔道部の畳の上で袈裟固めと髪の毛のむしりあいにエスカレートしたことがありました。

さらに、決着をつけようと道場で果たし合いもしました。

しかし、殺し合いになるわけでもなし、お互い必死の試合のような稽古を1時間以上やってふらふらになって、あまりに帰りが遅いので心配になって様子を見に来た家族に止められたおかげで、

「仕方がないで、許したるわ。」

かなんかで持ち越しになったような・・・。

はっきりとは覚えておりません。
清水先生はそんな私たちを無視して、ほかの部員たちと稽古をしていた記憶があります。

高橋先生は普通の先生で、研究授業があったり職員会議があると部活に来ませんでした。

普通は、顧問がいなければ部活はできませんでしたので部活はお休みとなるのでしょうが、しかし、清水先生は別格でした。

「僕は今更研究授業で勉強しなくてもいいからいかない。職員会議は僕は関係ないから部活に出る。」

授業では(社会の先生)話を聞いていると眠くなって、思わず眠たくなってこくりこくりしたものですが、

「宮崎君は部活があるから寝ててもいい。ほかにも眠たくて寝たい子は勝手に寝てなさい。その代わりテストだけはがんばるように」

とクラスの子たちにお構いなしでどんどんマイペースで授業を進めていってしまいます。

とにかく部活のために学校に来ているような先生でした。

研究授業だろうが、職員会議だろうが、体育祭だろうが、文化祭だろうが、何があっても、ほかの部活が全部休みでも、放課後、剣道部だけはちゃんと部活がある。

剣道は初段を持っておられたようですが、強いわけではなく、私や松葉、高橋は勝ってしまいました。

手加減をして打たせたわけではなく、本当に打たれてしまうらしいです。

私たちが2年生になった頃には、

「レギュラークラスは宮崎君が指揮を執って全部やれ、僕は初心者だけ教える。」

増え始めた初心者の剣道部員たちを全部引き受けてくださり、道場で覚えてきた稽古を自分の限界まで毎日できたのは、先生が私たちを認めてくださり、信じてくださり、任せてくださったおかげでした。

このころ、私が稽古の指揮を執るときいつも心がけていたことは、

「自分の限界までやる。」

これを徹底しました。

時には度が過ぎて松葉ととっくみあいになり、清水先生に止められましたが、剣道に夢中になるあまりで、松葉といがみ合ったり、嫌いあっていたわけではなく、向こうの気持ちはわかりませんが、わたしにとっては、唯一無二の心からわかり合える一番の友でした。