私が館長の宮崎です。
誠裕館道場の剣道担当です。
宮崎誠一(ミヤザキセイイチ)、1962年(昭和37年)7月31日生まれです。
1972年(昭和47年)10歳の時、小学校4年生秋から剣道を始めました。
今(2015年)50歳を過ぎ、数年後には八段に挑戦します。
子供は4人います。
4人とも剣道をしています。
なにしろ、道場を自分で持っているので、おなかの中にいるときから、もちろん生まれてまもなくの頃から、竹刀の音を聞き、稽古する姿を見て育ちました。
剣道をやるかやらないかではなくて、いつからやるかだけだったみたいです。
長男・次男は幼稚園の年中の9月(4歳、早生まれなので)から、
長女は幼稚園に入る前の年の9月(3歳)から、
次女は特別体が小さかったこともあり、小学校1年生(6歳)の4月からでした。
みんな剣道は生活の一部みたいです。
さて、私にとっての剣道とはいったい何なのか?
生活の一部、
仕事をがんばるための気分転換、
健康の秘訣(むしろ痛めつけているかも・・・)、
人生をよりよく生きるためのスパイス。
剣道にはいろんな側面があります。
人生の半分を生きてきて(最低百歳まで生きる予定)、残りの人生をよりよく生きるきっかけにするため、かなり記憶は曖昧になっていますが、過去(剣道限定で)を振り返って、自分の剣道を再確認しようと思います。
興味のある方はおつきあいください。
おおざっぱに私の剣道の歴史を書きますと、
10歳 1972年(昭和47年)10月、剣道を始める
12歳 小六の3月、道場完成(祖父が当時私が入っていた道場に貸していた)
12歳 1975年(昭和50年)4月島中学校入学 剣道部で清水薫先生の指導の下、剣道を続ける 中1で初段取得
15歳 1978年(昭和53年)4月岐阜北高校入学 剣道部で大杉二郎先生の指導の下、剣道を続ける。 高1で二段取得
18歳 1981年(昭和56年)4月信州大学入学 剣道部で折口築先生・道山弘康先生の指導の下、剣道を続ける。大1で三段取得、大4で四段取得
25歳 誠裕館道場を始める
35歳 五段取得
40歳 六段取得
47歳 七段取得
私の剣道歴の中では、小中学校時代に道場連盟の試合で全国大会に出場したことはありますが、いわゆる全国大会(全中・インターハイ・インカレ)に学校のチームで出場したことはありません。
国体も同様に出場経験はありません。
大学の時、北信越ブロック新人戦で個人準優勝したあと、今はもうやっていないと思いますが、地域別大会という各ブロックからの選抜メンバーでチームを作りリーグ戦を行うという大会のメンバーに選ばれたのみです。
その唯一の大会も前期試験直後という丸2週間全く稽古をしていない状態で、不本意な結果に終わりました。
まずはじめに剣道をすることになったきっかけを書かなければいけませんね。
何か感動的な剣道との出会いがあると格好がつくのですが、まったく、たいしたことはありません。
私は一ヶ月の早産で1500gの未熟児で生まれてきたと聞いています。
確かに写真を見ると小さい赤ちゃんでした。
今でも縦には小さいままです(横にはずいぶん成長しすぎましたが)。
かすかな記憶ですが、小学校1年生のころ、祖母から
「これを食べると大きなれるで・・・。」
と、ゼリービーンズのようなものを与えられ、しばらくの期間強制的に与えられ食べていたような・・・。
なにかの「栄養剤」のようなものだったのでしょうか?
それのおかげなのかどうかわかりませんが、同じ年頃の子供と比べて小さかった私ですが、3年生の頃から、肥満児になってきました。
祖母たちは、肥満児ではいけないということで、だれかから聞いてきたのでしょう。
また、当時テレビで森田健作さん主演の「俺は男だ」という番組を祖父母が見ていた影響もあるでしょうが、
「早田小学校の体育館で小学生の剣道教室があるから、一度見に行ってみよう。」
訳のわからないうちに、剣道を始めることになりました。
近くに住んでいた従兄弟の栗本副館長も一緒です。
栗本は7歳小学校1年生でした。
しょっちゅう一緒に遊んでいたので、何やるにも一緒でした。
今はもうありませんが、「早田少年剣道倶楽部」という剣道教室です。
きっかけなんてこんなものです。
TV番組で観てかっこいいからやってみたいとか、近所の強いお兄さんに憧れてとか、毎朝家の前を通っていく竹刀を持ったお姉さんが通っている道場で、どうしても一緒に汗をかきたかったとか、そういった、「自分から進んで」というきっかけではありませんでした。
早田には2年弱お世話になって、剣道の基本を教わりました。
なかなか踏み込み足ができなくて、面をつけるようになっても、踏み込んでの面の打ち込みが、うまくできなかった記憶があります。
速い面打ちが苦手で、面抜き胴を取られて、いつも悔しい思いをしました。
そんな私が初めて相手からとれるようになった技は「引き面」でした。
なんせ、踏み込みができないので速い面が打てません。
小手面なんて絶対無理。
小手はあんな小さな的に当てるなんてとてもとても、基本練習でも当たることの方が少ないぐらいでした。
何をどうやったのかは今では定かではありませんが、しばらくの間私の得意技は「引き面」でした。
得意技というよりも、「引き面」しかできないといった方が正しくて、たまたま引き面が当たって、引き面なら自分でも一本とれると勘違いして、その後は何か工夫をして打っていたんでしょうね。
次に相手からとれるようになった技は「引き胴」。
「引き面」がとれるようになったので、互角稽古をするといつも鍔ぜりから「引き面」を狙っていました。
バカの一つ覚えです
いつも狙っていれば、さすがにみんな「引き面」には気をつけるようになってきました。
引き面を打とうとすると、手を上げて面をよけられてしまいます。
困ったな・・・。
必殺技を止められてしまうと何ともならん、ほかには何にもできん・・・。という状況です。
あるとき、面をよけるということは手が上に上がる、手が上がれば胴が空くことに気づきました(当たり前のことだけど大発見)。
面を打つふりをして、がら空きになった胴を打ってみたら見事に胴あり。
それからは「引き胴」も武器になり、一本とれるようになったのです。
「引き胴」も打てるようになると「引き胴」を打つふりをして「引き面」も打てるように。
「引き面」と「引き胴」の両方がが打てるようになって、なんとか少しは前より勝てるようになりました。
それでも、速い面や小手面、小手が打てないので、試合に出て個人戦で二つ勝てばいいところだったと思います。
ですが、剣道教室の中では簡単に面を打って胴を抜かれて負けてしまっていたのが、そんなところは勝負しないで(捨てて)、ごまかしながらとにかく鍔迫り合いに持ち込んで、「引き面」か「引き胴」に勝負をかけるというスタイルができました。
我流だけど、鍔ぜりで相手をどうやって崩すか?
なんてこともいろいろ工夫していたなあ。
上から相手の鍔を押さえて崩すとか、相手の竹刀を上から押さえてとか、当たり前の崩しではあまり打てないので、インチキを少しだけ加えるのです。
インチキというわけではないのですが、ちょっと独自の工夫を入れるのです。
今でも子供たちに鍔ぜりからの崩しと「引き面」と「引き胴」打ちは、もちろん基本的な崩し方は教えていますが、当時自分で工夫したやり方も教えています。
早田の剣道教室ではいわゆる基本の打ち方は教わりましたが、あまり駆け引きやちょっと意地悪な崩しについては、やっていなかったようです。
早田で教わった応じ技は、せいぜい出小手と面抜き胴くらいでしょうか。
基本打ちでは特に仕掛け技を重視した指導だったのだと思います。
それでも6年生になる頃には、引き技だけでなく、「出小手」や仕掛けわざとしての「小手面」、「面抜き胴」なんかも一本とれる技になってきました。
剣道の稽古にいくときは、私たちは早田小学校の校区ではなかったので、自宅から剣道教室までは3kmほどあり、小学生二人だけでは防具や竹刀を持って通うのは大変でした。
いつも剣道に行くときは祖父と祖母が私たち二人を送り迎えしてくれました。
およそ二年間送迎してもらって剣道に通いましたが、祖父母は早田の剣道教室の先生とは折り合いがよくなかったようです。
私が6年生の夏休みに岐阜県ではとても有名な、雙柳館淺川道場に移りました。
淺川道場で私が教わった先生は、もう亡くなられましたが、1956年(昭和31年)第4回全日本剣道選手権大会で優勝され、最年少で範士を授与された淺川春男先生でした。
初めて淺川道場を訪ねたとき、淺川先生に足捌きの注意を受け、実際少し稽古しただけで足がふらふらになってしまい、少しはあった自信を木っ端みじんに砕かれてしまいました。
その頃淺川道場では稽古の前に、小学生は初心者熟練者を問わず、片足跳躍を相当な回数するのが常でした。
構えの足の形から右足を上げ左足だけで10回跳躍し、逆も同じく10回跳ぶ、ということを延々笛に合わせて繰り返すのです。
簡単で単純なことですから、初めての時は何でこんなことを何回もやるんだろう?
そう思いましたが、これがなかなかかなりきついのです。
すぐにふらふらになってこらえきれなくなり泣きごとをいったと思います。
大学生の時、私が長野県松本市の浅間温泉に下宿していたこともあり、祖父母と一緒に淺川先生が浅間温泉に遊びに来てくださったことがありました。
私の大学にも稽古にいきたいといわれたので、顧問の先生にその旨お伝えしたら、是非ご指導をお願いしたいということになりました。
このとき淺川先生がまず大学生にさせたのが、片足跳躍でした。
私にとっては相当の長時間でも当たり前にできることだったのですが、私以外の部員は先輩も後輩ももちろん同級生も、みんなこの片足跳躍がこなせません。
すぐに音を上げてしまいました。
淺川先生が、
「足腰を鍛えるのに走ったりするくらいなら、片足跳躍をやったほうが
遙かにいい。」
とおっしゃったことを今でも覚えています。
本家、現在の雙柳館淺川道場では片足跳躍はもうやっていないと聞きましたが、私の道場は初心者は必ず片足跳躍をいやというほどやります。
しかし、このときばかりは道場を移ってすぐで全く足が鍛えられていないので、あまりの自分の足のふがいなさに愕然としました。