館長の剣道修行(7) 中学剣道部 その4 「先」の気持ち

中学時代の私の剣道について書いています。

 

私の中学時代の剣道・試合のやり方は、

1,声を大きく

2,相手と構えて向き合ったとき、自分を主人公として剣道の攻めを考える

3,打って打って打ちまくる

 

簡単にいうと、やることは以上三つだということを書いています。

 

 

1の声を大きくということについて、

声なんか関係ないじゃん、声なんか出ていなくても、しっかりした打ちであいての面・小手・胴を打てばいいやないか。

と思われる方も多いでしょう。

実際、声の大きさは関係ないかもしれませんが、やはり、強い人・高段者・よい先生は声はしっかりしていて(大きい・力強い・鋭い・怖い)、小さい・声に力がない・のんびりした声の人はまず強い人はいません。

 

2の相手と向き合ったとき自分が主人公ということは、剣道の言葉で言うと、「先を取る」ということです。

必ず、何事も自分からです。

いつも気持ちは自分から。

外からみていると相手が先に打っているような場面でも、必ず、「私がこうしたら相手が打ってくる」という気持ちに持って行く癖をつけると、応じ技が今までより決まるようになります。

「先を取る」、「先の取り合い」が剣道の攻めです。

 

ある意味「打つ」ことよりも大切かもしれません。

打ちのスピード、足の速さ、足捌き、踏み込みの鋭さ、連打の早さ等には限界があります。

しかし、「先を取る」気持ち、「攻め」をいつも考えて剣道をしていると、限界を超えることができます。

剣道は、攻めによって動く相手を打ちます。

 

しっかり構えて、全く動かない、竹刀を払っても押さえても、ぴたりと剣先がのどに戻る相手は、なかなか打てるものではありません。

 

私は五十歳を超え剣道歴は四十年以上になりました。

 

中学校時代は試合において、自分から仕掛けて面を一本取る自信はありませんでした。

しかしスピードは合ったと思います。

 

高校時代も中学時代よりスピードは増しました。

 

大学時代、この頃が物理的スピードのピークだったと思います。

 

二十台は大学までの剣道をキープ、三十台が大学より力が落ちてきたことを認識し、五段を取得したころは大学時代の方が力は上だったと思いました。

 

四十台、六段~七段。

この頃、スピードや力にとらわれない剣道に気づきました。

 

そして今。

五十台になって、今、過去最高に速い面を打っています。

確信です。

 

「先」をとること、攻めを意識した剣道は、自分の肉体の限界を超えることができます。

五十代になって最速の面が打てる。

もちろん、小手も面も胴も突きも。

剣道っておもしろい。

 

中学時代、私は「攻め」のほんの先っぽ部分、自分を主役にして試合の組み立てを考える。

ということをしていました。

 

館長の剣道修行(6) 中学剣道部 その3 試合の勝ち方

私の中学時代の剣道は、

蝕刃の間から一足一刀の間へ、入り際を打たれないように入り、渡って(相手の竹刀を押さえつつ、間を詰めていく)間を詰め、あとは打って打って打ちまくる。

あるいは、面にいくぞと攻め、相手が面の勝負にこれば、出小手、抜き胴、返し胴。

あるいは、相手がこちらの出小手を予想して、面を攻めながらこちらの出小手を打つ竹刀を打ち落とす小手面を狙ってくるなら、それ以上の速い小手面。または、小手面を打たせそれに合わせた小手胴。

試合や稽古で、小技ができて、技の組み立ても考えて攻める、相手の裏をかき自分の打ちの裏をかく、相手にとってはやりにくかったと思います。

 

試合や稽古では、連打で勝負するんだということはいつも思っていましたが、それ以外でも心がけていたことがあります。

いわば、「試合の勝ち方」とでも申しましょうか

 

 

 

一つめは、

同じ攻め入りで何通りも決め技を変えて一本とれるようにしておくこと。

例えば、お互い一足一刀の間合いで向き合い、こちらが面を打っていったら、相手はそのまま手元をあげ、竹刀の表(真上から見て竹刀の左側)で面をよけられたとすると。

こんな場合は、同じ間合いから同じ入り方で面を打ちにいき(気持ちだけ)、途中から相手の手元があがったところを小手に落とす。あるいは胴を切る。

 

一つの同じ攻め口から何通りかの技を打つ。

 

野球でいうなら、同じフォームからストレート・カーブ・スライダーが投げられるような感じなのでしょうか。

野球より距離が近いので、早めに避けに回る相手は私にとっては得意な相手でした。

 

いつも試合を意識して、稽古の中で何度でも練習することが大切です。

 

 

二つ目は、

相手が打ってくるとき竹刀だけで相手の打ちを避けないこと。

できれば脚だけで避けるか、体捌きで避ける。

相手の打ってきた刀の下に体を置かない。

竹刀で相手の打ちを避けても、脚を同時に遣う。

必ず応じ技につなげる。

ということです。

 

相手から打ってきた時は避けるのではなく、応じ技を出すチャンス。

条件反射のように、何も考えなくても自動的に体が反応して応じ技を出すというレベルまで、自分の得意な技は徹底的に反復練習しておく。

試合でも稽古でも、避けるだけの動きにならないこと、かならず応じ技につなげること。

応じ技は狙って相手をはめていくのも一つの方法だけど、反射的に、知らないうちに打っていたというレベルまで徹底的に反復練習すること。

 

いつも試合を想定し稽古をし、試合の時には稽古でやったことを自信にして思う存分好きなように、自分の剣道をする。

 

1,相手が何もしなければ、こちらから仕掛け、渡って連打に持ち込みどこからでも一本を取る。

2,相手が仕掛けてきたときは、応じ技のチャンス。

3,鍔迫り合いになったら、チャンス。

 

あと試合の組み立てを考えるとき、

相手がこう来たら・・・、○○する。

という考えは負ける剣道です。

 

あくまでも、

自分がこうしたら、相手は○○する、だからそこをこうやって決める。

というように、

 

必ず自分が主役になるよう考えます。

そして、主役の自分が必ず勝つストーリーで相手と戦う。

ハッピーエンドです。

 

こんな風に考えて剣道を、試合を、稽古をしていました。

 

 

今でも、中学生を指導していて思う試合の必勝法は、

1,大きな声を出すこと

2,連打を狙うこと

3,自分の苦手なこと、こちらが不利になること、相手が有利になることはしないこと

 

大きな声で連打が出ていると、試合の運はこちらに傾いてきます。

 

剣道の試合・審判規則によると

「有効打突は、充実した気勢、適正な姿勢をもって、竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるものとする。」(以上、全日本剣道連盟 試合・審判規則より引用)

とあります。

剣道で一本になる打ちは、大きな声・鋭い声・気迫のこもった声で、正しい姿勢で、竹刀の打突部(中結いから先の部分)で相手の打突部位(面・小手・胴・突き)を弦の反対側で、刃筋正しく打って、打ったあとも気を抜いていないことが必要です。

 

中学生向きに簡単に言うと、

「大きな声で、面・小手・胴を正しく打って、打ったあとも気を抜かないこと。」

 

第一の条件、声が大きいこと。

いつもの稽古も必死に声を出すようにやっていると当たり前ですが、声は出ます。

出ないと思い込んでいる人は、出ないと思っているから出ないだけ。

 

第二、相手よりたくさん打つ、どんどん打つ、当たるまで打つ。

相手が打ってこなければ打つ、打ってきたら打つ、避ければ打つ、外れたら打つ。

いつも、自分の限界まで必死になって打って打って打ちまくる練習をするので、できるようになる。

 

第三、打ったあとは絶対気を抜からない。

当たったと思っても、自分ではやめない。

審判に止められるまで、次の技を打つ。

面・小手・胴に当たっても当たらなくても、自分の打った打ちは一本決めるつもりの打ちをする。

 

それだけのことをするだけ。

 

何かに記録が残っているわけではないですが、中学時代の私は一年間で、一つか二つ負ける程度だったと思います。

私たちが中学生の頃は、中体連の団体戦の全国大会はありましたが、個人戦はありませんでした。

私たちの中学は部員が多く、団体戦の選手以外も稽古を一所懸命やっていたので、先生の方針で、団体戦に出た選手は個人戦には出ない。ということになっていました。

私たちもそれに納得し、私が中学時代に唯一出場した個人戦は、三年生の時の段別選手権のみです。

結果は三位でしたが、初めて出る中学の個人戦でしかもライバルの松葉を押さえて、選手に選んでいただいたので、何が何でも勝ち上がるんだという気持ちでした。

優勝したのは和知中学の長谷川君というこで、私は準決勝でこの選手に負けました。

長谷川君は道場連盟の個人戦で全国準優勝だったと聞いています。

 

 

さて、団体戦の方ですが、本当に私は負けるということがほとんどありませんでした。

大きい声で、スピードがあって、連打・あと打ちなど、打って打って打ちまくる。

このスタイルが自分に合っていたと思います。

 

声が大きくて、スピードがあって、相手より打ちまくって・・・。

相手から取ってくる技の1/3~半数は実は打突部位を外れた打ちでした。

しかし、剣道で一本になるための、条件のうち一つの条件「打突部位を」という部分がほんのちょっと、数センチあるいは十数センチ、数十センチずれているだけで、一本の範疇だったのです。

 

一本というのは審判の主観による総合評価なので、すべての条件が完璧に満たされていなくても、一本になります。

試合では自分が主役になり、相手を倒すヒーロー物語をハッピーエンドで終える。

それには、きちんと限界までやる稽古で繰り返し自分を追い込み、頼れる自分になっておく。

楽して勝つことはできません。

 

私はこのあたりものすごく、剣道って文学的だと思います。

館長の剣道修行(5) 中学剣道部 その2 友=ライバル

中学校に入って剣道部での稽古について書いています。

 

同級生に「松葉」というライバルがいて、部活で稽古していると、時々とっくみあいになってしまうほど負けん気がお互い強く、意地を張り合っているが一番の友でした。

 

先生はとにかくいつも部活にいる。

研究授業でほかの部が休みの日でも、

「今更僕は研究して勉強する必要はないからいかない。」

職員会議があってほかの部活は活動できなくても、

「僕は職員会議は関係ないからいかない。」

だから、部活の休みはない。

そんな生活を送っていました。

 

さて、中学時代の私の剣道についてです。

私はどんな剣道をしていたのか?

どんなタイプだったのか?

 

小学校六年で雙柳館淺川道場に入ってから、私の剣道は大きく変わりました。

雙柳館に入る前は、お互い構えあったところからごまかしながら鍔迫り合いになり、引き面か引き胴を狙う剣道でした。

 

雙柳館に入ってから変わったこと。

1,足捌きが速くなった。

2,小手が打てるようになった(一足一刀からのせめて小手、出小手、担ぎ小手)

 

以前からの技に磨きをかけたこと

1,引き面がパワーアップした。

2,引き胴がパワーアップした。

 

中学になって変わったこと

1,面抜き胴、面返し胴が打てるようになった。

2,小手面が速くなった。

3,体力がついた。

 

1年生の夏の大会が始まる頃には自分でも強くなったという実感がありました。

何より足捌きに自信が持てるようになったことが大きく剣道を変えました。

苦手だった踏み込みが全く気にならなくなり、面もある程度速くなったのですが、まだ松葉なんかには面で勝負はできません。

道場にはほかにも、身長があり攻めが強く面打ちの速い同級生が大勢いて、私の身長でいくら速くなっても上から先に乗られてしまいます。

ですから私は構えあってじっと攻めて面で勝負ということは避けていました。

捨て技で「速い面があるぞ」と、絶対応じ技ができないタイミングで当たらない面を見せておいて、別の技を仕掛けることはしました。

一足一刀の間から面で勝負はしません。

ふりだけ。

面で勝負と見せておいてほかで討ち取る。

 

 

難しい表現なしで簡単に言うと、

私の剣道は、

蝕刃の間から一足一刀の間へ入るとき、入り際の出端を打たれないようにして、そのまま、あるいは間を置いて、渡って間を入っていき、あとは連打で打って打って打ちまくる剣道です。

団体戦は長くても3分、掛かり稽古で限界まで追い込んだ稽古をしているので、細切れの連打なら3分間では体力がきれることはありません。

思い返してみても3分間フルに攻め続けることはなかったと思います。

 

たいてい速い時間帯で1本とれるので、1本とったあとは攻めて打つぞというふりをしていると、相手の方から仕掛けてくるので、面に来るなら出小手や抜き胴・返し胴、面すりあげ小手、よけておいての引き胴、引き面、小手に来るなら、小手打ち落とし面、小手すりあげ面、小手すりあげ小手、小手返し面等、応じ技のバリエーションも増えていたので、楽にもう一本とれました。

 

正統派のしっかりした構えで中心をせめて面を狙う、強いタイプはむしろ得意でした。

雙柳館にもそういうタイプの本当に強い同級生がいましたが、私は負けたことがありませんでした。

松葉はそこまで構えもしっかりではありませんでしたが、とにかく面と小手面が速く、出小手も得意で遠間からの勝負ができるタイプでした。

松葉は私といつも稽古で死闘しているので、私の連打や応じ技のスピードに慣れ隙がなくなってきて、なかなか私も簡単には打てなくなっていました。

私の方も遠間からの速い打ちにだんだん慣れてきて、少々の面のスピード自慢なら、松葉に比べれば屁のカッパだと思えるようになっていました。

 

中学で出た試合は今では1試合覚えているだけですが、それは中学に入って初めて出た市大会でした。

市大会の準決勝だったと思います。

私のチームは、先鋒に松葉、次鋒3年生、中堅高橋、副将3年生、大将宮崎という編成でした。

相手チームは同じ雙柳館の3年生の先輩が2人入っているチームでした。

たしか、1年2人勝って3年が2人負け2-2の大将戦になり、相手は当然道場の先輩ですが、1本とられ負けてしまいました。

松葉にはおまえのせいで負けたといわれましたが、確かに自分のせいなので、あの先輩だからといいわけもしましたが、う~ん今回は参った、という感じでした。

俺は強いと思って頭に乗っていたところの、鼻っ柱を思いっきり殴られたような気がしたことを覚えています。

これが良い薬になって、また稽古に打ち込みます。

 

つづきます。

館長の剣道修行(4) 中学剣道部 その1 限界までやる

館長の剣道修行(4)

宮崎少年、中学生になりました。

中学生になった私は、小学生と一緒に稽古することはなくなりました。

週1回土曜日、小学生の稽古終了後が中学生の時間です。
大勢いた小学生の頃の道場の同級生は、道場チームの試合のメンバーになれなかったものの多くが道場をやめて、部活でも剣道を続けるわけではなく、剣道から離れていきました。

中学では別の競技で自分の力を試してみたいと考えたのでしょう。

私にとっては、剣道が、道場も中学での部活も楽しくて仕方のないものでした。
島中学校は当時、小学生だけで通える道場が近くになかったので、剣道部の先輩に剣道の小学校からの経験者が少なく、雙柳館の同級生たちには、
「おまえの中学は毎年1回戦5-0負けやぞ。」
などといわれてバカにされました。
が、これは裏を返せば私たちが島中学校の剣道部では一番強いということになります。

しかも、私を含めて3人雙柳館から入っていたので、心強かったものです。
8月の土用稽古の試合での優勝者(松葉という)、3位の私、ベスト8(高橋という)。
ほかの同級生たちは中学校がばらばらになるので、3人集まった私たちは相当強いはずです。
なぜかはわからないけど、自分たちは強いと思い込んでいて、強いと思うし、もっと強くなりたいからきつくても稽古をする、稽古をするともっとどんどん強くなると思い込んでいたので楽しい、楽しいから稽古をさらに一生懸命やる。

そんな善循環がおこっていました。

顧問はまだ若い元気がある、高橋という先生。
そして、前任校で全国大会に連れて行った経験のある清水薫先生が島中に赴任されました。

私も松葉もなぜか剣道はもちろん何をやるにしても、根拠のない自信があって、1年生に入ったばかりなのに、市大会なんかはいきなり上位にあがれると思い込んでいました。

松葉と私は小学校の頃からライバル視しあっていて、剣道では絶対こいつにだけは参ったといいたくないと、毎日の部活の稽古も週一回の道場でも意地を張り合っていました。

いつだったか稽古をしていて、小手が肘に外れたことがきっかけで、だんだんワザと防具のないところを狙って打ち合うようになり、鍔迫り合いからとっくみあいになり、小手を外し、面がとれ、胴が外れ、柔道部の畳の上で袈裟固めと髪の毛のむしりあいにエスカレートしたことがありました。

さらに、決着をつけようと道場で果たし合いもしました。

しかし、殺し合いになるわけでもなし、お互い必死の試合のような稽古を1時間以上やってふらふらになって、あまりに帰りが遅いので心配になって様子を見に来た家族に止められたおかげで、

「仕方がないで、許したるわ。」

かなんかで持ち越しになったような・・・。

はっきりとは覚えておりません。
清水先生はそんな私たちを無視して、ほかの部員たちと稽古をしていた記憶があります。

高橋先生は普通の先生で、研究授業があったり職員会議があると部活に来ませんでした。

普通は、顧問がいなければ部活はできませんでしたので部活はお休みとなるのでしょうが、しかし、清水先生は別格でした。

「僕は今更研究授業で勉強しなくてもいいからいかない。職員会議は僕は関係ないから部活に出る。」

授業では(社会の先生)話を聞いていると眠くなって、思わず眠たくなってこくりこくりしたものですが、

「宮崎君は部活があるから寝ててもいい。ほかにも眠たくて寝たい子は勝手に寝てなさい。その代わりテストだけはがんばるように」

とクラスの子たちにお構いなしでどんどんマイペースで授業を進めていってしまいます。

とにかく部活のために学校に来ているような先生でした。

研究授業だろうが、職員会議だろうが、体育祭だろうが、文化祭だろうが、何があっても、ほかの部活が全部休みでも、放課後、剣道部だけはちゃんと部活がある。

剣道は初段を持っておられたようですが、強いわけではなく、私や松葉、高橋は勝ってしまいました。

手加減をして打たせたわけではなく、本当に打たれてしまうらしいです。

私たちが2年生になった頃には、

「レギュラークラスは宮崎君が指揮を執って全部やれ、僕は初心者だけ教える。」

増え始めた初心者の剣道部員たちを全部引き受けてくださり、道場で覚えてきた稽古を自分の限界まで毎日できたのは、先生が私たちを認めてくださり、信じてくださり、任せてくださったおかげでした。

このころ、私が稽古の指揮を執るときいつも心がけていたことは、

「自分の限界までやる。」

これを徹底しました。

時には度が過ぎて松葉ととっくみあいになり、清水先生に止められましたが、剣道に夢中になるあまりで、松葉といがみ合ったり、嫌いあっていたわけではなく、向こうの気持ちはわかりませんが、わたしにとっては、唯一無二の心からわかり合える一番の友でした。

館長の剣道修行(3) 剣道やれば治る

私(館長)の剣道修行(3)

さて、今回は誠裕館道場のできるきっかけとなるお話です。

私の剣道の基本を教わった、雙柳館淺川道場は初めのうち、
びっくりすることばかりでした。

まず、道場に上る階段の狭いこと。
二番目は道場がそこで稽古をする人数に対してめちゃめちゃ狭いこと。
三番目が何せ人数が多いこと。
四番目がその人数の子供を指導する先生の、子供を動かす技術がすごいこと。
五番目がまたその先生がめちゃくちゃ強いこと。
六番目がその先生の教えた人たちが強いこと。
・・・・
いろいろすごいことだらけでした。

さて、その中でも二番目三番目の問題はとても深刻でした。
じつは雙柳館は岐阜市西問屋町の本道場だけではなくて、岐阜市岩崎にも道場があって、そちらはそちらで別の子たちが稽古をしていたのです。

人数が多すぎて道場が狭い。
いくら淺川先生が子供をさばくのがうまくても、限界があります。
稽古の終わりの挨拶で、全員が面を膝の前に置いて正座をすると、道場いっぱいに広がって隙間がなく、ぎゅうぎゅう詰めでした。

なんとかならないものか?
剣道範士八段の淺川春男先生と私の祖父がえらく気があって、どこか川北の方に(岐阜市の長良川よりも北部のこと)道場を借りられるところを探してほしいと頼まれたようです。

探したようですが、そんな簡単に剣道の道場として使えるような所もなく、私の祖父が
「わっちが道場を建てたるで、そこを使うとええわ。」
そんな流れだったのでしょう。

そのころ、ちょうど岐阜環状線の工事が島(誠裕館のある地名)にも及んできた折でした。
祖父の持っている土地のすぐ横に岐阜環状線が通ることになり、建設工事が始められたのです。
大通りに面した土地を遊ばせておくのはもったいないないということで、通り沿いに貸店舗を建設し、その2階を剣道の道場にして、雙柳館の淺川先生に使ってもらおう。
そうすれば、自分の孫たちも自宅から近いところで剣道ができるし、剣道をする場所ができれば、この近辺でも剣道をする子が増えるだろう。

そんなことを祖父は考えて道場兼貸店舗を建てたのでしょう。
1971年(昭和46年)から1972年にかけて「俺は男だ」という森田健作主演のテレビドラマを祖父祖母は見ていました。
たぶん私の剣道も少しはその影響でしょうし、実際この頃の剣道人口は、びっくりするほど増えていました。

祖父と淺川先生は意気投合し、川北地区に剣道の道場を建てる話がとんとん拍子に進みました。
私たちは8月に雙柳館に道場を移ったのですが、翌年の3月にはもう道場が完成しています。
今思えば、祖父にとってはよっぽどのことだったのだと思います。
祖父や父は剣道をするわけではありません。
父などは小学校から高校まで、私の試合を見に来たことは一度もありません。

試合や遠征について行ってくれるのは、祖父と祖母。
父と母は一度も見に来たことはありません。
小学校の頃、宿題がやってなかったり、体調が悪かったりしても、とにかく剣道のある日は剣道が最優先。
何か剣道と重なることがあっても、剣道が一番大事。
とにかく徹底していました。

風邪気味で熱っぽい、学校の体育で疲れている時は、ただ一言、「剣道やれば直る。」
体育で足をひねった、突き指をした、そんなときも、面を着けて稽古をやってみて、どうしてもできなんだら見学、でも大抵はできてしまう。
「剣道やれば直る。」
というのは無茶に聞こえますが、確かに少しばかり熱っぽい、頭が痛い、おなかが痛い、そんなときでも、大きな声を出し、必死に動き、汗をかけば治ってしまうことが多かったのです。

私たちが中学に入る頃、「俺は男だ」の再放送が何度も流れていました。
私の進学した、島中学校剣道部は入学したとき、3年生2人、2年生3人、1年生10人(経験者3名、女子は含まず)でした。
その後、私が3年の時には、剣道部員は男女併せて50人ほどになって、剣道ブームの始まりでした。

さらに栗本副館長が3年の時(私の3年後)には、島中の剣道部員が男女併せて100名を超えたようです。
しかも、そのうちの多くが雙柳館川北道場(現在の誠裕館道場の場所)へ入りました。

 

誠裕館道場の前身、雙柳館川北道場は大繁盛でした。
私が中学生の時、川北道場だけで小学生が100名を超えたということを聞きました。
本道場ほどではないにしろ、大所帯です。
火・木・土の初心者の部が始まる午後5時半頃から、片足跳躍のリズムを取る笛の音が、ここいらの小学生の帰宅時間を知らせる合図となっていきました。

 

館長の剣道修行(2) 一眼二足三胆四力

誠裕館道場、館長の宮崎です。

前回に続きまして、私(館長)の剣道修行その2です。

 

私の小学校の頃の剣道修行について書いています。

早田小学校の剣道教室から雙柳館淺川道場に移り、単なる片足跳躍をやっただけで足がふらふらになってしまい、自分の足のふがいなさに愕然としたところからです。

 

早田小学校の頃の先生から、剣道は一眼二足三胆四力だ、という言葉を聞いていまして、これは剣道をする上で大切な順番だと教わっていました。

 

 

一番大切なのは、目。

相手と向き合った時観ること、またそこから相手の動きをよむこと。

「遠山の目付」といわれるように、一点を注視するのではなくて、剣道では相手全体を眺めるように観ること。

観の目ですね。

 

 

二番目に大切なのは、足。

送り足(すり足)、踏み込み足、開き足、

剣道では、自分が自由に動き技を出すためには足捌きが自在にできなければいけない。
三番目に大切なのは、胆。

胆力、度胸のこと。
剣道は動きたい気持ちを我慢し、ここぞというときに決断し打ち切る。
ものに動ぜぬ心と思い切りが大切。
四番目に大切なのは、力。

力は体力・腕力ではなくて技術・技のこと。

最後、四番目が技・テクニックだというところが、いかにも武道らしいと思います。
早田の剣道教室の中では、私はそれなりに同級生に勝てるようになっていたので、雙柳館でもそれなりに通用するのでは・・・、と思っていたのに、こんな簡単な片足跳躍ですぐふらふらになってしまうなんて。

おそらく雙柳館の子たちはみんな、こんなことは簡単にこなしてしまうのだろうな。

だから強いんだ。
雙柳館淺川道場は当時、岐阜市内の剣道大会では個人戦の上位は総なめ。
団体戦も優勝。
県大会でもいつも優勝候補。
そんな道場でした。

7月の全国大会は前の剣道教室で出場して、東京から帰ってきてから道場を移りました。
8月は雙柳館ではちょうど土用稽古(土用鰻の土用です)という集中稽古があり、この期間は一週間毎日稽古がありました。
確か岐阜農林高校の体育館をお借りしていたと思います。

技術レベルに応じて稽古時間が区切ってあり、移籍したばかりの私たちはまずは初心者クラスでした。

初心者クラスはまずは跳躍。

ひたすら跳躍。

その場跳躍、片足跳躍、踏み替え跳躍。

そして基本打ち。

足捌きと基本打ちを集中的におさらいできたのは、とても自分のためになりました。

 

 

土用稽古の最終日には学年ごとの試合がありました。
同学年に何人いたのか全く覚えていませんが、雙柳館には小学生が全部で200人以上いたと記憶しています。

市民剣道大会などの個人戦では、私は3回戦までいくのが精一杯。
雙柳館の子にはいつも負けていました。
初心者クラスで一週間やっただけでは、稽古の時間帯が違うので熟練クラスとは会いません。
最終日の大会で初めて同級生たちと顔を合わせました。

知っている子はいないかなあと探してみても、
試合では見たことがあるけどという子がいるけれど、同じ小学校の子はいません。

初めて顔を合わせた同級生たちは、私のことを何だか値踏みをするような顔つきで、
こいつだれだ?
という雰囲気でした。

私は土用稽古では初心者クラスで、もっぱら足捌きや基本技の打ち込みを主体で稽古していたので、互角稽古はやっていませんでした。
試合形式は雙柳館に来てから、この学年別試合が初めてでした。

試合が始まってみると、足捌きと基本打ちを徹底的に絞られたので自分でびっくりするほど、以前より技に切れがあります。
足捌きがよくなったのでスピードがつきました。
何回勝ったのかは覚えていませんが、準決勝まで来ました。

準決勝の相手は見覚えがありまあした。

市大会で3位に入っていた子で、延長戦までもつれ込みましたが力尽きました。

しかし、まさかの三位入賞にはわれながらびっくり。

足捌きと基本打ちの大切さはこのとき身にしみて感じ、今でも指導方針の柱です。

 

土用稽古が終わると夏休みの宿題の追い上げのために、8月いっぱいはお休みだったと思います。
9月からは通常の稽古になりました。
月・水・金の週3回、夜の7時頃から1時間稽古があります。

道場に始めていったときはびっくりしました。
道場の場所は牛乳屋さんの工場の屋上にありました。
狭い外階段を2階建ての工場の屋上まで上っていきます。
すれ違いができないほど狭い階段でした。

この階段の上で、まさか200人以上の人間が、
剣道をやっているとはとても信じられませんでした。

広さも、誠裕館道場の三分の二はなかったように思います。
誠裕館は道場の板張り部分がおよそ、9m×21mほど。
狭いコートがぎりぎり二面とれます。
以前は岐阜支部の昇級審査をやったことがありました。
当時まだ市営の体育館などがなかったので、利用したのだと思います。
さて、話を戻します。
雙柳館淺川道場は岐阜市内の西問屋町というところにありました。
岐阜の駅前の繊維問屋街の外れの方です。
以前の早田の剣道教室よりも遠くなりました。
しかし、バスが運行しているので却って私たちにとっては便利でした。

祖父や祖母に送迎してもらわなくても、
防具を担いでバスに乗ってしまえば運転手さんも覚えていてくれるので、
子供なので眠ってしまうことがあっても、ちゃんと起こしてくれました。
帰りは私か栗本の父が車で迎えに来てくれました。

今時の剣道少年たちは、道場へは同じ小学校の校区でも車での送迎が当たり前です。
むしろ、それだけ物騒な世の中になったのでしょうか?

館長の剣道修行(1) 初心

私が館長の宮崎です。

誠裕館道場の剣道担当です。

 

宮崎誠一(ミヤザキセイイチ)、1962年(昭和37年)7月31日生まれです。

1972年(昭和47年)10歳の時、小学校4年生秋から剣道を始めました。

今(2015年)50歳を過ぎ、数年後には八段に挑戦します。

 

子供は4人います。

4人とも剣道をしています。

なにしろ、道場を自分で持っているので、おなかの中にいるときから、もちろん生まれてまもなくの頃から、竹刀の音を聞き、稽古する姿を見て育ちました。

 

剣道をやるかやらないかではなくて、いつからやるかだけだったみたいです。

長男・次男は幼稚園の年中の9月(4歳、早生まれなので)から、

長女は幼稚園に入る前の年の9月(3歳)から、

次女は特別体が小さかったこともあり、小学校1年生(6歳)の4月からでした。

みんな剣道は生活の一部みたいです。

 

さて、私にとっての剣道とはいったい何なのか?

生活の一部、

仕事をがんばるための気分転換、

健康の秘訣(むしろ痛めつけているかも・・・)、

人生をよりよく生きるためのスパイス。

剣道にはいろんな側面があります。

 

人生の半分を生きてきて(最低百歳まで生きる予定)、残りの人生をよりよく生きるきっかけにするため、かなり記憶は曖昧になっていますが、過去(剣道限定で)を振り返って、自分の剣道を再確認しようと思います。

興味のある方はおつきあいください。

 

おおざっぱに私の剣道の歴史を書きますと、

10歳 1972年(昭和47年)10月、剣道を始める

12歳 小六の3月、道場完成(祖父が当時私が入っていた道場に貸していた)

12歳 1975年(昭和50年)4月島中学校入学 剣道部で清水薫先生の指導の下、剣道を続ける 中1で初段取得

15歳 1978年(昭和53年)4月岐阜北高校入学 剣道部で大杉二郎先生の指導の下、剣道を続ける。 高1で二段取得

18歳 1981年(昭和56年)4月信州大学入学 剣道部で折口築先生・道山弘康先生の指導の下、剣道を続ける。大1で三段取得、大4で四段取得

25歳 誠裕館道場を始める

35歳 五段取得

40歳 六段取得

47歳 七段取得

私の剣道歴の中では、小中学校時代に道場連盟の試合で全国大会に出場したことはありますが、いわゆる全国大会(全中・インターハイ・インカレ)に学校のチームで出場したことはありません。

国体も同様に出場経験はありません。

大学の時、北信越ブロック新人戦で個人準優勝したあと、今はもうやっていないと思いますが、地域別大会という各ブロックからの選抜メンバーでチームを作りリーグ戦を行うという大会のメンバーに選ばれたのみです。

その唯一の大会も前期試験直後という丸2週間全く稽古をしていない状態で、不本意な結果に終わりました。

 

 

まずはじめに剣道をすることになったきっかけを書かなければいけませんね。

何か感動的な剣道との出会いがあると格好がつくのですが、まったく、たいしたことはありません。

私は一ヶ月の早産で1500gの未熟児で生まれてきたと聞いています。

確かに写真を見ると小さい赤ちゃんでした。

今でも縦には小さいままです(横にはずいぶん成長しすぎましたが)。

 

かすかな記憶ですが、小学校1年生のころ、祖母から

「これを食べると大きなれるで・・・。」

と、ゼリービーンズのようなものを与えられ、しばらくの期間強制的に与えられ食べていたような・・・。

なにかの「栄養剤」のようなものだったのでしょうか?

 

それのおかげなのかどうかわかりませんが、同じ年頃の子供と比べて小さかった私ですが、3年生の頃から、肥満児になってきました。

 

祖母たちは、肥満児ではいけないということで、だれかから聞いてきたのでしょう。

また、当時テレビで森田健作さん主演の「俺は男だ」という番組を祖父母が見ていた影響もあるでしょうが、

「早田小学校の体育館で小学生の剣道教室があるから、一度見に行ってみよう。」

訳のわからないうちに、剣道を始めることになりました。

近くに住んでいた従兄弟の栗本副館長も一緒です。

栗本は7歳小学校1年生でした。

しょっちゅう一緒に遊んでいたので、何やるにも一緒でした。

今はもうありませんが、「早田少年剣道倶楽部」という剣道教室です。

 

きっかけなんてこんなものです。

TV番組で観てかっこいいからやってみたいとか、近所の強いお兄さんに憧れてとか、毎朝家の前を通っていく竹刀を持ったお姉さんが通っている道場で、どうしても一緒に汗をかきたかったとか、そういった、「自分から進んで」というきっかけではありませんでした。

 

早田には2年弱お世話になって、剣道の基本を教わりました。

なかなか踏み込み足ができなくて、面をつけるようになっても、踏み込んでの面の打ち込みが、うまくできなかった記憶があります。

速い面打ちが苦手で、面抜き胴を取られて、いつも悔しい思いをしました。

 

そんな私が初めて相手からとれるようになった技は「引き面」でした。

なんせ、踏み込みができないので速い面が打てません。

小手面なんて絶対無理。

小手はあんな小さな的に当てるなんてとてもとても、基本練習でも当たることの方が少ないぐらいでした。

 

何をどうやったのかは今では定かではありませんが、しばらくの間私の得意技は「引き面」でした。

得意技というよりも、「引き面」しかできないといった方が正しくて、たまたま引き面が当たって、引き面なら自分でも一本とれると勘違いして、その後は何か工夫をして打っていたんでしょうね。

 

次に相手からとれるようになった技は「引き胴」。

「引き面」がとれるようになったので、互角稽古をするといつも鍔ぜりから「引き面」を狙っていました。

バカの一つ覚えです

いつも狙っていれば、さすがにみんな「引き面」には気をつけるようになってきました。

引き面を打とうとすると、手を上げて面をよけられてしまいます。

 

困ったな・・・。

必殺技を止められてしまうと何ともならん、ほかには何にもできん・・・。という状況です。

あるとき、面をよけるということは手が上に上がる、手が上がれば胴が空くことに気づきました(当たり前のことだけど大発見)。

面を打つふりをして、がら空きになった胴を打ってみたら見事に胴あり。

それからは「引き胴」も武器になり、一本とれるようになったのです。

「引き胴」も打てるようになると「引き胴」を打つふりをして「引き面」も打てるように。

 

「引き面」と「引き胴」の両方がが打てるようになって、なんとか少しは前より勝てるようになりました。

それでも、速い面や小手面、小手が打てないので、試合に出て個人戦で二つ勝てばいいところだったと思います。

ですが、剣道教室の中では簡単に面を打って胴を抜かれて負けてしまっていたのが、そんなところは勝負しないで(捨てて)、ごまかしながらとにかく鍔迫り合いに持ち込んで、「引き面」か「引き胴」に勝負をかけるというスタイルができました。

 

我流だけど、鍔ぜりで相手をどうやって崩すか?

なんてこともいろいろ工夫していたなあ。

上から相手の鍔を押さえて崩すとか、相手の竹刀を上から押さえてとか、当たり前の崩しではあまり打てないので、インチキを少しだけ加えるのです。

インチキというわけではないのですが、ちょっと独自の工夫を入れるのです。

今でも子供たちに鍔ぜりからの崩しと「引き面」と「引き胴」打ちは、もちろん基本的な崩し方は教えていますが、当時自分で工夫したやり方も教えています。

 

早田の剣道教室ではいわゆる基本の打ち方は教わりましたが、あまり駆け引きやちょっと意地悪な崩しについては、やっていなかったようです。

早田で教わった応じ技は、せいぜい出小手と面抜き胴くらいでしょうか。

基本打ちでは特に仕掛け技を重視した指導だったのだと思います。

それでも6年生になる頃には、引き技だけでなく、「出小手」や仕掛けわざとしての「小手面」、「面抜き胴」なんかも一本とれる技になってきました。

 

剣道の稽古にいくときは、私たちは早田小学校の校区ではなかったので、自宅から剣道教室までは3kmほどあり、小学生二人だけでは防具や竹刀を持って通うのは大変でした。

いつも剣道に行くときは祖父と祖母が私たち二人を送り迎えしてくれました。

およそ二年間送迎してもらって剣道に通いましたが、祖父母は早田の剣道教室の先生とは折り合いがよくなかったようです。

私が6年生の夏休みに岐阜県ではとても有名な、雙柳館淺川道場に移りました。

淺川道場で私が教わった先生は、もう亡くなられましたが、1956年(昭和31年)第4回全日本剣道選手権大会で優勝され、最年少で範士を授与された淺川春男先生でした。

 

初めて淺川道場を訪ねたとき、淺川先生に足捌きの注意を受け、実際少し稽古しただけで足がふらふらになってしまい、少しはあった自信を木っ端みじんに砕かれてしまいました。

 

その頃淺川道場では稽古の前に、小学生は初心者熟練者を問わず、片足跳躍を相当な回数するのが常でした。

構えの足の形から右足を上げ左足だけで10回跳躍し、逆も同じく10回跳ぶ、ということを延々笛に合わせて繰り返すのです。

簡単で単純なことですから、初めての時は何でこんなことを何回もやるんだろう?

そう思いましたが、これがなかなかかなりきついのです。

すぐにふらふらになってこらえきれなくなり泣きごとをいったと思います。

 

大学生の時、私が長野県松本市の浅間温泉に下宿していたこともあり、祖父母と一緒に淺川先生が浅間温泉に遊びに来てくださったことがありました。

私の大学にも稽古にいきたいといわれたので、顧問の先生にその旨お伝えしたら、是非ご指導をお願いしたいということになりました。

 

このとき淺川先生がまず大学生にさせたのが、片足跳躍でした。

私にとっては相当の長時間でも当たり前にできることだったのですが、私以外の部員は先輩も後輩ももちろん同級生も、みんなこの片足跳躍がこなせません。

すぐに音を上げてしまいました。

 

淺川先生が、

「足腰を鍛えるのに走ったりするくらいなら、片足跳躍をやったほうが

遙かにいい。」

とおっしゃったことを今でも覚えています。

本家、現在の雙柳館淺川道場では片足跳躍はもうやっていないと聞きましたが、私の道場は初心者は必ず片足跳躍をいやというほどやります。

 

しかし、このときばかりは道場を移ってすぐで全く足が鍛えられていないので、あまりの自分の足のふがいなさに愕然としました。