館長の剣道修行(11) 岐阜北高校剣道部 その3 試合の思い出

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前回は警察官の剣道における「タコ踊り」に話がそれてしまいましたが、高校時代です。

 

さて、私たちが最上級生となってから、言い換えると2年の「インターハイ」予選が終わってから、私たちの目標は「打倒市岐商、インターハイ」となりました。

進学校なので部活動の時間は、平日1時間。しかも毎日できるわけではありません。狭い第二体育館を剣道部、柔道部、卓球部で使用するので、同時にできるのはふたつの部。剣道部の週間稽古予定は、月・火は稽古、水曜休み、木曜筋トレと素振り、金・土稽古、日休み。

平日、月・火・金が1時間ずつ、土曜が3時間、面をつけて稽古できるのは、たった6時間、これだけでした。

おそらく、市岐商などは、月・火・水・木・金は3時間。土日は4時間ぐらいは稽古しているでしょう。一週間で23時間ほどはやっていそうです。

私たちの少なくとも3倍から4倍稽古している学校に勝負を挑んで、「インターハイ」出場を勝ち取ること、それが目標でした。

大杉先生も、稽古時間の差については承知してみえたようで、

「3分の1の稽古で同等以上の成果を出すには、いつも頭を使った稽古をしろ。」

と、これが私たちの合い言葉でした。

 

さらに、1時間で出し切る稽古を心がけました。時間は短いけれど、稽古が終わったときにはフラフラになるほど、全力で体を動かし手を抜かない稽古です。

私は、小さく速い足捌きを止めることなく使い続けること、打ち合いに持ち込んだら一本とるまでは打ち続けること、「三殺法」を意識することに心がけました。

剣道での「三殺法」とは、相手の剣・技・気を殺すことです。

具体的には、

 

1,剣を殺す

相手の竹刀を払ったり、押さえたり、巻いたりして打ちを制すること。私は打ち合いの中でも単に打つのではなく、相手の竹刀を払い、擦り上げ、押さえ、巻き、反撃を封じ込め連打に結びつけました。

2,技を殺す

常に先を取り、先手先手に技を出し、相手に技を出す隙を与えないよう心がけました。

3,気を殺す

自分の気力を充実させ、常に先を取り、相手が打とうとするところ、気合いを発して自分の気を盛り上げようとするところを押さえ相手の気力が重質するタイミングをくじいてしまうよう心がけました。。

 

高校時代、私の剣道は、攻めて攻めて打ちまくる剣道なので、まさに三殺法を駆使して、頭を使って相手のいやがることをする稽古を必死でしました。

もう一つ、私たちの地力をアップすることにつながったのは、大杉先生のマンツーマン稽古です。

大杉先生はこのころまだ現役で試合に出ておられたので、その稽古相手として、私と松葉、堀が順番に一人ずつ残って、30分間大杉先生の打ち込み台になるのです。

打ち込み台といっても、ただ立っていれば良いわけではありません。上段の大杉先生が言うとおりに攻めて打ち、それに対して大杉先生が技を出すということもしました。

大杉先生の上段の構えとお相手できたので、大学になり社会人になってからも上段を気にしないで剣道ができました。日本一の上段に比べれば、その後出会った上段の選手は取るに足らない、何する物ぞと、怖じけることはありませんでした。

 

そんな稽古をしていました。

2年の年末に、市岐商が東海地区や関西方面の剣道有名校を集めて行っている錬成会に参加しました。かなりのレベルの剣道有名校が集まっていましたが、互角に渡り合った記憶です。

「市岐商にだけは絶対負けない」と決めて臨んだ錬成会でした。その決意通り、市岐商とは何度か対戦しましたが、一度も負けることなく、錬成会を終えました。

 

3年になり、「インターハイ」予選はすぐにやってきました。

新一年に中学校の岐阜県チャンピオンが入ってきました。私たちの道場の後輩です。大杉先生は上級生を重んじ、少々強いからといっても、入学したばかりの1年生は選手には入れない方針でしたが、彼だけは別格で、レギュラーに抜擢しました。

戦力が上がっての「インターハイ」予選本番です。

今となっては細かい内容は覚えていません。私が唯一覚えているのは、「打倒、市岐商」の合い言葉のもと、みんなでがんばってきた市岐商戦ではありません。市岐商とは結果として出来ませんでした。私たちは、準決勝で「市岐商」ではなく、県岐商に敗退しました。

スコアは覚えていません。ただ、私が負けました。

県岐商の私の相手は小学校から同じ道場で稽古してきて、一度も一本も取られたことの無かったW君。私は一本も取られたことは無かったけれど、決して弱いわけではありません。県岐商のキャプテンです。取られたのは小手ですが、竹刀以外の部分には触れられていません。全くの審判の見間違いでした。

一本取られた後は、W君は全く打つ気無く逃げ回りました。弱ければまだしも、実力のある子が間合いには入ってこないで、ぐるぐると試合場を逃げ回りました。反撃が出来ませんでした。

試合後にW君が私に、

「すまんな宮崎、まともにやったら勝てるわけないで、逃げさせてもらった。」

小学校から一度も一本も取ったことの無かった彼が、たとえ誤審とはいえど初めて私に勝つチャンスだったのです。一緒に道場で剣道をやってきた仲間です。彼を責めることは出来ませんでした。

決勝戦では、県岐商は市岐商に全く良いところ無く、5-0で負けました。そして、私たちに一度も勝ったことの無かった市岐商がインターハイの切符を手に入れました。

悔しくて、悔しくて、悔やんでも悔やみきれませんでした。私は相手に体のどこにも触らせていない。へたくそな審判のために、負けにされてしまった。誰が審判だったのか全く記憶にはないですが、恨みました。

 

どんな努力も、へたくそ審判の前にはすべてが水の泡なのだということを思い知りました。

中学の時は、全国大会のかかった試合で代表戦に出ることができず、高校では誤審に泣きました。

 

東海大会では三重県1位のいる予選リーグを勝ち上がり、ベスト4に駒を進めました。準決勝で愛知県1位の東海高校に負けました。市岐商も予選リーグを勝ち上がりましたが、静岡県の高校に負けです。インターハイ予選ではなく、東海大会3位決定戦でようやく市岐商と対戦することになりました。

結果は以前の練習試合と同じような展開で、3-1で私たち岐阜北校の勝ちでした。

「打倒市岐商」は果たせましたが、インターハイの夢は叶いませんでした。

 

東海大会後、国体強化メンバーのお誘いがありましたが、受験勉強に力を注ぎたいからということで辞退し、高校での剣道は締めくくりとなりました。

館長の剣道修行(11) 岐阜北高校剣道部 その3 試合の思い出」への1件のフィードバック

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