館長の剣道修行(3) 剣道やれば治る

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私(館長)の剣道修行(3)

さて、今回は誠裕館道場のできるきっかけとなるお話です。

私の剣道の基本を教わった、雙柳館淺川道場は初めのうち、
びっくりすることばかりでした。

まず、道場に上る階段の狭いこと。
二番目は道場がそこで稽古をする人数に対してめちゃめちゃ狭いこと。
三番目が何せ人数が多いこと。
四番目がその人数の子供を指導する先生の、子供を動かす技術がすごいこと。
五番目がまたその先生がめちゃくちゃ強いこと。
六番目がその先生の教えた人たちが強いこと。
・・・・
いろいろすごいことだらけでした。

さて、その中でも二番目三番目の問題はとても深刻でした。
じつは雙柳館は岐阜市西問屋町の本道場だけではなくて、岐阜市岩崎にも道場があって、そちらはそちらで別の子たちが稽古をしていたのです。

人数が多すぎて道場が狭い。
いくら淺川先生が子供をさばくのがうまくても、限界があります。
稽古の終わりの挨拶で、全員が面を膝の前に置いて正座をすると、道場いっぱいに広がって隙間がなく、ぎゅうぎゅう詰めでした。

なんとかならないものか?
剣道範士八段の淺川春男先生と私の祖父がえらく気があって、どこか川北の方に(岐阜市の長良川よりも北部のこと)道場を借りられるところを探してほしいと頼まれたようです。

探したようですが、そんな簡単に剣道の道場として使えるような所もなく、私の祖父が
「わっちが道場を建てたるで、そこを使うとええわ。」
そんな流れだったのでしょう。

そのころ、ちょうど岐阜環状線の工事が島(誠裕館のある地名)にも及んできた折でした。
祖父の持っている土地のすぐ横に岐阜環状線が通ることになり、建設工事が始められたのです。
大通りに面した土地を遊ばせておくのはもったいないないということで、通り沿いに貸店舗を建設し、その2階を剣道の道場にして、雙柳館の淺川先生に使ってもらおう。
そうすれば、自分の孫たちも自宅から近いところで剣道ができるし、剣道をする場所ができれば、この近辺でも剣道をする子が増えるだろう。

そんなことを祖父は考えて道場兼貸店舗を建てたのでしょう。
1971年(昭和46年)から1972年にかけて「俺は男だ」という森田健作主演のテレビドラマを祖父祖母は見ていました。
たぶん私の剣道も少しはその影響でしょうし、実際この頃の剣道人口は、びっくりするほど増えていました。

祖父と淺川先生は意気投合し、川北地区に剣道の道場を建てる話がとんとん拍子に進みました。
私たちは8月に雙柳館に道場を移ったのですが、翌年の3月にはもう道場が完成しています。
今思えば、祖父にとってはよっぽどのことだったのだと思います。
祖父や父は剣道をするわけではありません。
父などは小学校から高校まで、私の試合を見に来たことは一度もありません。

試合や遠征について行ってくれるのは、祖父と祖母。
父と母は一度も見に来たことはありません。
小学校の頃、宿題がやってなかったり、体調が悪かったりしても、とにかく剣道のある日は剣道が最優先。
何か剣道と重なることがあっても、剣道が一番大事。
とにかく徹底していました。

風邪気味で熱っぽい、学校の体育で疲れている時は、ただ一言、「剣道やれば直る。」
体育で足をひねった、突き指をした、そんなときも、面を着けて稽古をやってみて、どうしてもできなんだら見学、でも大抵はできてしまう。
「剣道やれば直る。」
というのは無茶に聞こえますが、確かに少しばかり熱っぽい、頭が痛い、おなかが痛い、そんなときでも、大きな声を出し、必死に動き、汗をかけば治ってしまうことが多かったのです。

私たちが中学に入る頃、「俺は男だ」の再放送が何度も流れていました。
私の進学した、島中学校剣道部は入学したとき、3年生2人、2年生3人、1年生10人(経験者3名、女子は含まず)でした。
その後、私が3年の時には、剣道部員は男女併せて50人ほどになって、剣道ブームの始まりでした。

さらに栗本副館長が3年の時(私の3年後)には、島中の剣道部員が男女併せて100名を超えたようです。
しかも、そのうちの多くが雙柳館川北道場(現在の誠裕館道場の場所)へ入りました。

 

誠裕館道場の前身、雙柳館川北道場は大繁盛でした。
私が中学生の時、川北道場だけで小学生が100名を超えたということを聞きました。
本道場ほどではないにしろ、大所帯です。
火・木・土の初心者の部が始まる午後5時半頃から、片足跳躍のリズムを取る笛の音が、ここいらの小学生の帰宅時間を知らせる合図となっていきました。